富士日記

富士日記〈上〉 (中公文庫)富士日記〈中〉 (中公文庫)富士日記〈下〉 (中公文庫) 富士日記〈上〉
富士日記〈中〉
富士日記〈下〉
武田百合子
中公文庫
★★★★★


小川洋子さんが「心と響き合う読書案内」で紹介していた本の中の一冊です。

朝昼晩の献立のメモ、買い物のメモ(時代がわかるその値段)、明日の予定、業者への発注。何処へ行ったの、誰と会ったの、何をしたの・・・ほんと他愛のない話。時に項目の箇条書き。
それなのに、飽きない。ずーっとずーっとこのまま読んでいたいと思ってしまう。
この魅力はなんでしょう。
小川洋子さんは、あの読書案内の本の中で、武田百合子さんのことを天才、と呼んでいます。「かつて出合ったどんな文学とも似ていない、稀有な作品」とも。それから、「日常の平凡な生活の中に偉大な喜びや悲しみや恵みがあったことを、思い出させてくれる一冊」であり、「小さな出来事一つひとつにちゃんと意味があるのだということを、とてもやさしい言葉で語ってくれます」とも。
どの言葉にも心から頷いてしまう。そう、そうなんだ。と。

文は人なり。この散文的な文章の向こうに武田百合子と言う人がくっきりと見えてくるのです。おおらかで、正義感が強くて、かなりはっきり言うけれど、情にもろい人。ざっくばらんで心の開けた人だから友だちも多いみたい。いろいろなことを五感のすべてで感じとり、感じたままに言葉にして見せてくれます。
ときにはがんがん怒ったりずずけずけ物を言ったりもするけど、悪意はないし、怒りは決して長続きしない。さっぱりしていて気持ちがいいなあ。

そして、確かに天才。こういう文章を書く人は、生き方、その性格もまた持って生まれた才能ではないか、と思って憧れます。
わたしもこんなおかあさんがほしいな(え!?)
それから、豊かな自然描写。雄大な富士山、自然に囲まれた山荘の、春夏秋冬のおりおりの景色や、足元の草花の描写が、これもまた清清しく沁みいってくるのです。
さらに、この日記の書き手として時々顔を出す夫・泰淳の静かで力強い文章、娘・花ちゃんの素直な文章。この家族の風通しの良い関係を見るよう。日記ですけど、誰もが堂々と手にとるノートになっているから。

ところが、先へ先へと読み進めるに従って、武田百合子さんと言う人の人物像が、私の中でどんどん変化してきました。
最初はおおらかでさっぱりしたおかあさん、というイメージだったのが、後半は、育ちのよさを思わせる素直さ、そして内かわらあふれる優しさを一杯感じながらの読書になりました。

昭和37年7月
>くれ方に散歩に出たら、富士山の帽子のように白い雲がまきついていて、ゆっくりまわって動いている。
との記述。その雄大さに深呼吸したくなるよう。こんな風景から山の日記は始まったのです。

昭和40年 娘花子さん記(当時小学生)
>それから、シェークスピヤ先生がお書きになったマクベスというお話をときどき母からきいた。とてもすごそう。それも読みたい。母のお話はたいていマクベスと、よつや怪談のいえもんとお岩の話だ
・・・小学生の娘へのお話がマクベス四谷怪談。なんというか、それは凄いです、確かに。百合子母ならあり、と納得できる凄さです。

昭和42年3月 画家林武さんに描きかけの絵を見せてもらったあとで・・・
>「林さんが前に描いた有名な富士山の絵とそっくりなんだなあ。そっくりなんだが前のよりよくないんだなあ、今描いているのは。気にいらないんだな、それが。気が進まないらしいなあ」。ずっと林さんのことを考えていたらしい無理に押し出すような声で、主人は言った
・・・作家の妻として感じること、生活者として感じることがたくさんあったのでしょう。わたしも、この言葉、ずんと胸にしみました。早い時期に“越えられない”ような作品をつくりあげてしまった芸術家の苦しみを思うと、どんな言葉も出ないのです。ご主人のこの言葉を日記にしたためた百合子さん、そしてその夫の言葉を「無理に押し出すような」と形容した百合子さん。こんなくだりを読めば、武田百合子さんというおおらかな樹は、温かく滋養のある土に生えた樹なのだ、としみじみ思います。

42年5月 朝からかかってきた理不尽な電話にカッカと腹を立てたあげく・・・
>怒るとくたびれるからソンだ。
・・・ほんとだね^^

死んだ愛犬を抱いてげーッと泣いて、もう涙も出なくなった、と言う。非情なことも言う。だけど、その後もたびたびこの愛犬の名前が出てくるんですよ。ずーっと。

45年6月23日 この日の日記の最後にぽつんと。
>今日のデモに花子は出かけたかな。滑らない転ばない、いい運動靴をはいていったかな。
・・・この日付で検索したら「日米安全保障条約、自動延長」と出ました。花子さんがどのように関わっていたのかわからないし、こういうことについての百合子さんの意見は何も書かれていない。ただ、この一行のみ。母の目なのですよね。どうするべきか、とか、娘の思想についてあれこれ詮索するでもなし。ただ、娘の身を案じて、履いていった靴の心配をしているその一文にあふれる母の思いを感じています。

終わりの方は夫泰淳氏の闘病の時期でした。
でも、この本の中では、苦しみも悲しみもほとんど描かれることはありません。看護る妻のさまざまな思いも、ほんのわずか。
>私は気が変になりそうなくらい、むらむらとして、それからベソをかきそうになった。
時に、あっけらかんとしているようにさえ見える日記。
附記として、後日書かれた文章が添えられていました。
>年々体の弱ってゆく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、大きな声で笑い、庭を駆け上り駆け下り、気分の照り降りをそのままにくらしていた丈夫な私は、何て粗野で鈍感な女だったろう。
いいえ、ご主人は幸せであったろう、と思いました。湿っぽくされたらきっと辛かったのではないでしょうか。
あとがきに書かれた言葉の一つ一つがただただ切なくて、深い情の通い合ったご夫婦であったのだ、と改めて感じいりました。そう思って振り返ってみれば、なんでもない最初のほうの日々にさんさんと光が射して見え、ふいに、わたしたち家族の日々が重なってきます。あれやこれやは、みんな、かけがえのない日々だったのだ、と。

図書館で借りた本ですが、再読用に自分のものを揃えたいと思います。
いつまでも読んでいたい日記です。