火を熾す

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)火を熾す
ジャック・ロンドン
柴田元幸 訳
スイッチ・パブリッシング
★★★★


>命に対して自然はひとつの任を課し、ひとつの掟を与えた。永続することが命の任、掟は死である。        ――『生の掟』より――
9作品収録の短編集です。
背筋が瞬時に凍りつくような、ぴしっとした文章。短編だからこそ最後まで息を詰めて緊張してもいられる。


表題作『火を熾す』
真冬。
極寒の極北の地で、男が一人歩いている。一匹の犬を連れて。
この男がなぜ、こんなところにいるのか、何の説明もない。
男は仲間のいる野営地をめざしているようだ。
刺しつらぬくような極限の寒さの描写。
あたりを硬質に覆う闇の深さの描写。読んでいるだけで凍えるような。
用心深いはずの男がちょっとしたことから、「冷たさ」に捕らえられて動けなくなる。まるで罠に落ちたように。
刻々と忍び寄る死の気配の中で、力をふりしぼって体を温めるための火を熾そうとする。
それだけの話なのに、この物語がなぜ心に残るのか。
この厳しさ、凄さ。恐ろしさ。息をも凍りつかせる闇の中の緊張感。
なのに、こんなに静か。
音のない闇のなかで、生よりも死に最も近い瞬間に、
ほとんど美しいとさえ言い表したくなるような(そういう言葉を使うことは憚られるのだけれど)闇に包まれる。
言葉をなくして、立ち会っている。


『火を熾す』とよく似た状況を描いた『生への執着』
こちらは夏の極北。
夏とはいえ、ここは極北。
ここで傷つき裏切られた人間がどうなるか・・・
この物語を読みながら、「火を熾す」の男がなんのためにこの地にいたかを同時に知ります。
彼らは金鉱堀りなのだ。
とにかく生きながらえる、命をつなぐことだけのために、
もはや人間であることさえもやめて、ただ生に向かってじりじりと這うような「それ」・・・
彼の目線で描かれてきた物語が、突然第三者から見た彼の姿に変った瞬間、どきっとしました。
自分の目でそれを見たように、読後も目に焼きついています。
「火を熾す」の感動を踏みにじるようなその生への執着に、圧倒されずにいられません。
しかし、これほどの凄まじさも済んでしまえば、どうってことないのだ、といわんばかりのあっけなさ。
息を詰めて見守り、そうなるようにと願いつつ読んだのに、それがかなった瞬間、なあんだ、と冷める。
それまで必死でしがみついてきたものに一瞬で興味を失ってしまう。
この自分自身の無責任さに呆然。いやいや、そうではない。
長くこんなことに執着しているひまはないぞ。生き残るつもりなら。
本から伝わってくる空気が、そうさせる。


『一枚のステーキ』は、落ち目のボクサーの話。
彼が養わなければならない家族がいるのに、もはや彼は勝てないのです。
残酷な形で行われる世代交代。容赦はない。何よりも彼自身が納得している。容認している。
この容認は、『火を熾す』の容認にも繋がる。
そして、この残酷な世代交代は『生の掟』にも繋がる。


『生の掟』・・・深沢七郎の「楢山節考」を思いだす。
こういう風習が他国にもあったのか。
これも生きることに繋がります。自分が死んで自分の一族を生かすという意味で。
いや、これは単に一族だけの問題ではないのです。
「命」そのものを次代に託す。風習ではなくて掟。
そして、この物語では「その後」が描かれている。ひとり残った老人の思い、最後が。覚悟が、くじける心が、願いが、もしやの希望が、執着が、そして、受容が――
すさまじい世代交代
言葉がでてこないけれど、この物語をせめて心にとめよう。
このようにして生かされている命の一人なのだ、ということを。
束の間このからだに預かった命なのだ、ということを。