ディビザデロ通り

ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)ディビザデロ通り
マイケル・オンダーチェ
村松潔 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★★★



>わたしが生まれ育ったのはディビザデロ・ストリートだった。スペイン語で「境界線」を意味するディビザデーロに由来するこの通りは、かつてはサンフランシスコとプレシディオの境界にあった。それとも、それは、「遠くから見つめる」という意味のディビサールという言葉から来ているのかもしれない。つまり、そこからなら、遠くまで見渡せる場所なのである。
遠くまで見渡せる場所・・・
不思議な物語で、ふとこれは連作短編なのか、と思ったりしました。一章一章ひとつひとつのエピソードが、ドラマチックで、読みごたえがあり、読めば読むほどに、物語の喜びがあふれてくる。でも、それは複雑により合わさったり解けたりした糸の連なりの中にあるほんの一部、絵画のような織物の中の小さな色の重なりの一部なのです。


どこから始めましょうか・・・


父親と三人の兄妹。ささやかな家庭が崩壊し、それぞれの物語が始まります。


どの登場人物の人生にも、どこかお伽噺めいたものを感じます。
誰もがどこかで、深く傷つき、人生を左右し、決して忘れることのできない傷を持ち、
お伽噺などとは一見無縁なハードな人生なのに、そう感じるのは、傷つき、傷つけあいながらも、その相手に対して、憎しみや傷みを超えて深い一体感を感じ生きている。だから、かな。
ある意味ハードボイルドで、ある意味残酷で、官能的なのに、どこか牧歌的なのです。
それは、一人ひとりの物語が決して完結するようにはできていないからでしょうか?
強烈な物語なのに平和に語られ、初めて聞く物語なのに、よく知っている物語であるように感じさせるから?
ひとりひとりの感情に深入りするより、「遠いところ」から眺めているようなイメージがあるから?


とりわけクープ。ひととおりそのときどきに短い言葉で、彼の感情を表す言葉は添えられてはいるのですが、本当に知りたい深い思いは決して語られないのです。
だから、彼は今でもわたしには謎の人です。彼が実の両親を壮絶な形で失ったこと、育った家庭や育ての親のことをどのように思っていたのか、何もわからないのです。
そして、その父親も、後にでてきたロマンも、やはり同じようにわからない。で、わからないながらに、彼らには同じ匂いがあると感じます。


血の繋がりのない三人の兄妹クープ、アンナ、クレア。
そこから織物のように広がる人々の顔、顔。(……まずは、アンナが追い続ける作家リュシアンの生涯が、時を超えて物語の縦糸に織り込まれる)
さらにそのさきの人々、さらにさらに先の人々も、それぞれに魅力的で、その生き方にも言葉にも強く惹きつけられる。
リュシアンとともに旅したジプシーの家族、リュシアンの隣人夫婦、クープの友人ドーン。彼らがあまりにすてきなので、惹かれながらも、脇役にしかなれない人たちなのだ、と感じています。だって、彼らの生き方、考え方は、あまりにゆるぎないのだもの。いえ、今までも(そしてこれからも)さまざま紆余曲折もあったし、傷ついたり傷つけたり、未だに引きずっているものもあるのだけれど、また傍目にはめちゃくちゃな生き方に見えるけれど(刑務所に入ったり出たりしているのもいるし)でも、たぶん生き方はぶれない。信念、と言ってしまっていいかどうかわからないけれど、見ていて安心していられる、本の中の彼らに会うとほっとするのです。
クレアが、クープが、そしてアンナが、あの人たちと出会えてよかった。そして、わたしもあの人たちに出会えた。
美しい文章の織物……
人と人とが、限りなく出会ったり別れたりしながら、模様になっていく織物……


とくにあのジプシー一家のことが書かれた第二部はとても好きでした。


ディビザデロ通り、遠くまで見渡せる場所・・・
嘗てある家庭があったその場所。いまやそこさえ、タペストリを構成する小さな一つの色の点にしか見えません。
とりかえしのつかない悲しみも苦しみも裏切りも絶望も、喜びも愛も希望も、誕生も死も。よいものもわるいものも、タペストリの中の小さな、でも大切な色彩のひとつなのではないか・・・始まりも終わりも、はるかに遠く、永遠に未完のタペストリの。
それは、壮大であると同時にささやかであり、美しい御伽噺のようなタペストリです。