リンゴの丘のベッツィー

リンゴの丘のベッツィーリンゴの丘のベッツィー
ドロシー・キャンフィールド・フィッシャー
多賀京子 訳
徳間書店
★★★★


ベッツィーはハリエット大おばさんとフランシスおばさんのもとで、それはそれは大切に育てられました。あまりに大事にされすぎて、9歳になったときには、神経質でひ弱で、何一つ一人では決められない、考えられない、やろうともしない、もやしっ子に育ってしまいます。
そして、9歳のとき、ハリエット大おばさんが転地療養が必要な病気になったため、ベッツィーはバーモント州のパットニー農場に預けられます。農場の暮らしはひ弱なベッツィーにとってどんなに恐ろしいことか・・・というわけないじゃありませんか。ね♪

久しぶりにとても素直な子どもの本に出会い、素直に感動しました。一章よむごとに幸福に包まれ、一章読むごとに素直に泣きました。
決して不思議なことが起こるわけではない。怪しい人や怖い人、意地悪な人が出てくるわけでもないのです。大きな事件も起こりません。
おこるのは、まさにおこりそうなことです。そして、あまり枝葉を広げすぎることなく、まっすぐな解決を見せます。
だからです。だから、この物語からは、伝えようとしていることが、まっすぐぶれずにストレートに伝わってくるのです。それも嫌味なく。
何にもできない(と思い込んでいた)女の子が、他に方法がないから、おそるおそるなんとかやってみようと考える→やってみた→できた!→この達成感→自信に繋がっていきます。そして、どんどん健康な子どもらしくなっていくのです。もうこれだけで読んでいて嬉しくなってしまいます。

農場の生活は輝かしい活気と生命にあふれていています。みんなが働いています。自分のことは自分でやる、手があいたら手がたりないところを手伝うのが当たり前の生活。それでも時間はたっぷりあるのです。ゆったりと流れる時間があります。田舎の時間です。この時間の流れに身を任せるとほっとします。その生活はすばらしく、子どもが健康にならずにはいられないのです。
大人たちもすばらしいです。懐が大きくやさしいアビゲイル大おばさんとヘンリー大おじさん。さっぱりとしたアンおばさん。みんな働き者です。彼らのおおらかな愛情と見守りには、親として見習いたい大きな知恵があふれています。

では、ハリエット大おばさんとフランシスおばさんに育てられた9年間はベッツィーに害悪しか与えなかったのでしょうか。
いえいえ、そんなはずがあるわけないのです。
ひたすらに愛して愛して、それは愚かな愛情かもしれないけれども、この子をかけがえのない子として慈しんできた心は本物でした。
その気持ちは、ちゃんとベッツィーに伝わっています。ベッツィーのなかに優しさの種が撒かれ、農場でたくましくなった彼女から芽を出しました。
モリーやライアスへのやさしさ。間違っていることもあるかもしれませんが、それを素直に恥ずかしいと感じ入る気持ちもやさしさのうち。
そして、最後には、幼い頃から自分をひたすらに守ってくれたフランシスおばさんを、今度は自分が守ろうとする大きなやさしさにまで育っていったのです。
ベッツィーをここまで成長させたのはパットニー農場の人たちですが、その種を撒いたのは間違いなくフランシスおばさんだと思うのです。
一概にもいえないのですが、大きくとらえれば、愛情に間違った愛情なんてないんじゃないかな、と思いました。この本からこんなふうに受け取るのは、ずれているかもしれないけれど。

それにしても楽しい場面がいっぱい♪
できたてのメープルシロップを雪の上にたらしてやわらかい飴にするんですって。楽しそうでおいしそう。やってみたいなあ〜。
学校もすてきでした。読み方は七年生だけれど、九九は二年生、だなんて、いいなあ。落ちこぼれとかふきこぼれという残酷な言葉はないのですもの。
テストに対するアンおばさんの考え方もすてきです。学ぶ、ということの目的がそもそもなんだったのか、振り返ってみないといけないですね。
それから夜仕事をする家族のためにベッツィーがスコットの詩を朗読するところも好き。
忘れられないのは、アビゲイル大おばさんのお人形デビーを屋根裏のトランクの中からベッツィーのために取り出す場面。そのとき、大おばさんはこんなふうに言うのです。
「デビーや、ひさしぶり。ライラックの木の下で、よくいっしょにあそんだねえ。もう、大昔のことになっちまったけどね。ずっとひとりぼっちで、さびしかっただろ。でも、これからは、まえのようにあそんでもらえるよ」
・・・わたしはいくつになってもお人形の話に弱いのです。