四人の兵士

四人の兵士四人の兵士
ユベール・マンガレリ
田久保麻里 訳
白水社
★★★★


ロシア赤軍の一隊が、ルーマニア軍に追われながら撤退する場面から始まる。怒鳴られながら朦朧としたままふらふらと歩き泡を吹いてぶっ倒れるような行軍。
そして、血みどろの死体が累々と重なる戦闘シーンが終わりの方に現れる。
つまり、戦争なのだ。
この非日常で過酷な現実の中で、四人の青年が出会う。同じ隊に所属するベニヤ、パヴェル、キャビン、シフラ。
野営地での束の間の、まやかしのような静けさの中で、四人は大切な仲間となります。
配給のタバコを賭けてサイコロを振り、近隣の農民の家畜や作物をむしりとる「徴発」・・・
沼で魚をすくったり、軽口をたたきあったり、じゃれあったり、ただ黙っていっしょにいたり・・・急にかぎりなくやさしかったり・・・
いつも四人いっしょだった。平和な時代の普通の若者のように。

この四人の過ごした時間の濃密で静かな美しさ。息を殺して見守りたいような不思議な透明感さえ感じます。
たぶん、この前後にある戦争という背景のせい。
この平和は本当に束の間で、明日は人を殺し、自分もまた殺されるかもしれない、そんな緊迫した空気のハザマにぽっかりとできた空白の中の時間。
彼らは、ともに過去を語りません。聞きません。
ここに来るまで一体何をしていたのか、身内はいるのか、恋人はいたのか、どんな仕事をしてどんな生活をして、何におびえ、何を喜んで暮らしていたのか。どんな良いことをしてどんな罪を犯したのか。
誰も知らないのです。
同時に夢も語りません。将来何をしようとしているのか、どんな人生が望みなのか。
そんなことはどうでもいいことでした。
このハザマの時間の中で、ただ寄り添いあって、笑いあい毒づきあいながら、明日の戦争への恐怖をともに忘れようとしていたのかもしれません。自分たちの孤独を忘れようとしたのかもしれません。

>ぼくのほうは、奇妙な感覚に襲われていた。この腕をのばしたら、指先が夕闇にふれてしまうような。突然、野営地が引き払われ、行進をはじめた中隊が、整然と進んでゆく音が聞こえてくるような。そして見知らぬ夜のなかへ、どんどん飲み込まれてゆくような。
以前読んだマンガレリの「おわりの雪」の少年が想像で所有していたトビや、「しずかに流れるみどりの川」でおとうさんが昔釣ったマスを思い出しました。
惨めで苦しい生活の中では、うそでも想像でもよかったのです。それが確かにある、と信じられれば。
四人の兵士の濃密な時間は、「おわりの雪」のトビであり、「しずかに流れるみどりの川」のマスでもありました。
確かにあった時間かもしれないけれど、半分夢のようです。

そして、途中から四人の中に加わるエヴドキン少年。彼が絶えず何かを書いていた手帳。この手帳もまた、マスであり、トビであったのかもしれません。

>「ぼく、ノートの最期に、今日はいい一日を過ごしたって書いたんだ」
恐ろしい現実の中に、このような風景を見出すことができるのだということに、心動かさせられます。
それは否が応でも、這い蹲ってでも前進しなければならない過酷な現実を生き抜くための確かな美しい人間の知恵のようでもあります。
誰にもどうにも伝えられないような瞬間の美しさ悲しさ儚さをこんなふうに静かなスケッチのように切り取って差し出してくれた物語。


追記します(4月5日)

今、小川洋子さんの「心に響き合う読書案内」を読んでいるのですが、そのなかでフランクル博士の「夜と霧」がとり上げられていました。アウシュビッツ強制収容所での記録ですが、この章の中での小川さんの言葉の一部を引用させてください。

>高い木々の間をまるでデューラーの水彩画のように、沈みゆく太陽の光が差し込んでいる。みんな死んだように疲れているのだけれど、一人の仲間が、この美しい日没の風景をみなで一緒に見ようと言って誘う。その時誰かが、「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」とつぶやく。
彼らは、名前を奪われ、髪を奪われ、家族を仕事を、それまでの人生のすべてを奪われて、番号にされている人間達です。それでも、世界の美しさを感じとる心までは、ナチスも奪い取ることはできなかったのです。
わたしが「夜と霧」を読んだのはまだ十代のころですが、このくだりに強い印象を受けて、今もその感覚は忘れていません。小川さんの言葉にしてもらうと、そうなんだ、それなんだと、強くうなづきたくなりました。
そして、この「四人の兵士」をまた思い出しました。四人のとまったようなあの時間は、まさに、「夜と霧」のなかに、小川さんの言葉の中にあるような気がしたのです。
戦争が決して奪うことのできなかったもの。そして、それがこんなにも繊細で美しく見えるほどに、戦争はむごたらしいものであること。