プラネット・キッドで待ってて

プラネット・キッドで待ってて (世界傑作童話シリーズ)プラネット・キッドで待ってて
J・L・コンリー
尾崎愛子 訳
福音館
★★★★


時代は60年代。
12歳の少女ドーンは、一夏、ワシントンを離れ、ヴァージニア州の田舎に預けられます。おかあさんが難しい手術を受けるためです。
そして、預けられた親戚の農場のすぐ近くに住む同い年の少女シャーロットと親友になります。
でも、シャーロットは誰にも知られたくない秘密を持っていました。気まぐれで陽気で楽しいことが大好きなシャーロットですが、むら気で、ときどきぞっとするほど残酷な言葉を口にすることがある・・・

児童虐待
でも、苦しみおびえながらも、それを隠そうとする家族。
知ってしまったドーンは、なんとかならないのか、誰か助けてくれる人はいないのか、と思うのですが、誰にも言わない約束をしてしまいます。
なぜ隠すのか。気を失うほどに殴られて。・・・誰にも知られたくない、誰にもいえないほどに苦しみ、がんじがらめになって寄り添いあって暮らす家族に、言葉を失います。

楽しい夏を過ごしながら・・・
母親の危険な手術のことが気になって仕方がないドーン。
家族の秘密に苦しみおびえ、それを隠そうとするシャーロット。
二人が惹かれあうのもわかるような気がする。そして、夏だけの束の間の友情だということを互いに知っているから、本来話せない胸の内も話したりできたのかもしれない。それも、ストレートに、というのではなくて、なんというかな、その片鱗を見せ合いながら、でもなるべく本当に痛いところまでは決して触らせないような、そんな見せ合い方。
そんな子ども達の微妙な心が手に取るように伝わってくるのです。

夏のせいかもしれない。田舎の夏だからかもしれない。
それは何もかも置き去りにして余りあるような、すばらしい日々。
家畜小屋で眠ったり、子ども達が集まっての野球、釣りに行って一番のちびちゃんが大ナマズを釣りあげたり、おしっこくさい廃車に乗り込んでどこまでもドライブできるような気になったり。
プラネット・キッドというのは、ドーンとシャーロットが草の茂みのなかに作った秘密基地のようなもの。お気に入りのクッションや大切な本を持ち込んで、寝転がりながらいろいろなことを話し合う二人。
・・・他愛ないのです。子どもが子どもらしく過ごす、遊んで遊んで、の日々なのです。
そんな日々がまるで無声映画のように目の前をすべっていくような気がすることがあります。輝かしい子ども達の笑顔のむこうに重苦しい音楽が聞こえるような。決して解決しないだろう問題が見えるときに、そうなります。

デルバートという黒人の男の子が出てきます。
この子も田舎に預けられた少年です。
ドーンたちはこの子と友だちになります。
この子がとってもとっても魅力的に描かれています。愛しいデルバート。好きにならずにいられません。「ぼくの名前はデルバートじゃないよ、ロイと呼んで」、「今はウィリーだよ」、そして音楽への愛情と才能。

白人の子どもと黒人の子ども達が集まって屈託なく遊ぶ。だれも人種の違いなど問題にしない。子どもの遊びの世界では平等なのだ、と思う。
そこへ、おばさんが「レモネードができたわよ」と子どもらを呼ぶ。

>かわるがわる、大きなボウルからひしゃくですくっては、ごくごく飲む。おばさんは、黒人の男の子たちに別のひしゃくをわたす。
これだけ。余計な説明は何もなし。もう次の行では話題は変っている。差別の言葉は何もないのに、これだけですべてがわかってしまう。
人種差別をメインに扱った本ではないけれど、こういうふうに差別のことを書くのって凄いと思った。60年代アメリカの社会のなかでは、こんなふうに日常生活のなかに肌身にしみるように差別が受け入れられていたんだ、と。
それは、「人種差別、それこそ問題なのです!」的な書き方じゃない、「黒人も白人もありません、みんな平等です」的なわざとらしい博愛的な書き方でもない。それだけに、感じるものは大きいです。

なんだかとりとめがなくなってしまいました。
あまりにも感じることが多すぎて。
子どもたちの世界にはいろいろな自分たちではどうしようもない深刻な問題がいっぱい。でも、とびきりのすばらしい夏の喜びもいっぱい。子ども達、ある部分では凄く弱々しくて、ある部分ではすごくたくましくて、そして傷つきやすい。考え深くて浅はかで、がんこでしなやか。そして、せつないくらいに愛しい。

このあとどうなるのだろう。
わたしがドーンの母親だったらどうしただろう。
ドーンの思いが通じますように。ドーンがポストに落とした手紙のポトンに合わせて、わたしもまた、ドーンと同じ夢を見ている。願っている。