ココロの止まり木

ココロの止まり木ココロの止まり木
河合隼雄
朝日新聞社
★★★


新聞に連載したものをまとめた本なので、一章一章は、とても短いです。その短い文章の中に、著者のユーモアのある温かい人柄があふれているようでした。
ただ、短い字数の中で語られるひとつひとつの話題は短すぎて、限りあるなかでせいいっぱいの発信なのでしょうが、気になる話もさらっと終わってしまうのが不満でした。ときどき「その話もうちょっと聞きたい。もうちょっと深く語ってほしい、なんでそうなったのかちょっと詳しい説明がほしい」と思った。
それはたぶん私たちが、生活しながら考えを深めていくべき問題なのかもしれないけれど。
少しづつ、気ままにのんびりと読み進めながら、これは、というところに付箋を挟んでいるうちに、本が付箋だらけ、ページがぶわっと膨らんで大変なことに・・・。
そのなかでも特に印象に残っている言葉達を少しだけ抜書きしておきます。自分の心覚えのために。

>(古美術品を)修復するときに、補修用の布がもとの布より強いと、それはもとの布を結果的に傷めることになる。そこで、補習用の布は、もとの布より「少し弱い」のがいいが、その加減が難しい

>日本神話の全体としての特徴は「均衡」ということであろう。ふたつの対立する力のどちらかが勝ち、どちらかが敗れる、というのではなく、ふたつの力が均衡し共存する。これは世界の神話のなかでも珍しいと言ってよく、示唆するところの大きいことである。

>年齢や性にこだわる人は単調になる。主旋律以外の音が聞こえてこない。年齢を忘れる人は、低音が大きすぎて旋律を消してしまうようなものだ。年齢を括弧に入れて、時にははずしてみたり、括弧の囲みを強くしたり、弱くしたりすることで、人生はだいぶ豊かになる。

>先生も親もどうして子どもはいつも「明るく元気に」していなくてはいけない、と思うのだろう。(中略)「みんな一緒に遊びましょう」というのも病気に近いのではなかろうか。

>ファンタジーというと、ともかく現実離れしている作り話と思う人もいるが、そんな甘いものではない。(中略・・・被虐待児が箱庭を繰り返し作ることで癒されていくこと、その箱庭作品が他人の心を打つことについて触れて・・・)このような例に接すると、「ファンタジー」の意義が了解される。それは「真実を伝える」最良の方法なのである。こう考えると、ファンタジーの作品を単純に「作る」などというのではなく、なんといっても伝えたい「真実」があり、それを伝える最良の方法はファンタジーしかないのだということ・・・

>人間が「生きている」と実感するとき、「命あるもの」として自分のことを感じるとき、その実感を深め、他人と共有するためには「物語」が必要なのではないだろうか。

>親や教師などの大人が、子どもが感動するのは好きだが、疑問を持つのを嫌がることが多いのは最もだと考えられる。子どもの感動は、大人の「思い通り」なので、安心である。ところが疑問となると、どこに話が進んでゆくかわからない。

(50歳まで大百姓としてしっかりと生き、隠居して天文学に熱中し、子午線の計算を試み、日本地図を作成した伊能忠敬の生き方を例に引き)
>人生を二度生きようとする者は、土を愛するが故に天を愛する、というパラドックスを生きねばならない。天を見上げつつ、文字どおり大地を踏みしめて歩く伊能忠敬の姿が、それを象徴しているようであった

お話はさまざまな方向から様々な世界へ向かっています。書き留めながら、ふと思ったこと。特に印象に残ったフレーズを10個書き出しなさい、と言われたら、他の人は何処を選ぶだろうか。きっと十人十色、その人の性格、その人が興味を持っていることや、その人の暮らし方などで、選ぶ言葉が違ってくるのだろう、と思いました。読み比べたら、おもしろそうです。