ペンギンの憂鬱

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)ペンギンの憂鬱
アンドレイ・クルコフ
沼野恭子 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★


売れない作家ヴィクトルは、自分の探偵小説を売り込みに行った新聞社から思いがけない仕事の依頼を受ける。
それは、まだ亡くなってもいない著名人のための追悼記事を書いてほしい、という仕事。つまり、著名人が亡くなったときに、すぐ記事にできるようにあらかじめストックとして用意しておこうというもの。
ところが、彼が誰かの追悼記事を書くと、ほどなくして、その誰かが、必ず死ぬのです・・・

「孤独が二つ補い合って、友情と言うより互いに頼りあう感じ」で暮らす、憂鬱症を患うペンギンのミーシャとの生活。
「しばらく預かってほしい」という置手紙とともにヴィクトルのもとに置いていかれた小さな女の子ソーニャ。
ソーニャのシッターとして雇いながら、愛がないままなんとなく家族のように暮らすようになるニーナ。
巡査セルゲイとの束の間の温かい友情。孤独な老ペンギン研究者との交情。
次々失踪する近しい仕事がらみの人々。
これらすべて、普通の感覚からしたら、すんなり受け入れるにはかなり抵抗があるのですが、淡々と主人公は受け入れています。でも、まだまだこんなものじゃなかった。
ヴィクトルのまわりには、なんだかわからないことがずんずん押し寄せてくる、いつのまにか抜け出せないきな臭い世界の奥深くに踏み込んでいくような気配なのに、何と不思議に平和な毎日。なんなんだ、この淡白な感じ。起こっていることの重大さと主人公の淡白さのアンバランスが、不気味ですし、主人公に対して苛立ちも感じます。

ふとポール・オースターのニューヨーク三部作を思い出しました。(最初の二作しか読んでいません。あまりに滅入ってしまって二冊で挫折しました) 一見サスペンス風なのに、物事は何も解決しない、混乱の中、自分を取り巻くものを何もわかっていないような、自分さえわからなくなるような、寒々とした孤独とそれを見る冷たい目線だけがうきぼりになる感じが似ているんです。

ただ、ここにペンギンのミーシャが存在する、ということ。
さっぱりわからない人間と人間、同じくさっぱりわからない物事と物事を結ぶ手立てのように・・・
ううん、ペンギンが憂鬱症である、ということ。人といっしょに暮らしているということ。それ自体が「不条理」というものの代名詞なのではなかろうか。
私だって、主人公とそんなに状況が違わないんじゃないか。ほんとはすごくおかしなことの真ん中に投げ込まれているのに、じわりじわりと慣れさせられているのかもしれない。
そして、いつのまにか少しずつ信じるに足る、と思っていた価値観や信念のようなものが、ゆっくり溶けてしまっていたら?・・・すごく怖い話だと思う。後味悪いなあ。
読み終えてみれば、あの可愛い表紙が、なんという皮肉、と思えて仕方ないのです。