サクリファイス

サクリファイスサクリファイス
近藤史恵
新潮社
★★★★


いきなり事故のシーンから始まる。え?これは一体何?何の場面なのだろう、何がおこったのだろう・・・
と、思う間もなく、その場面はあとかたもなく消え去り、場面は、プロのロードレースのチーム「チーム・オッジ」のトレーニング風景。このチームのメンバーのひとりチカこと白石を語り手として、物語は始まります。

ロードレースというスポーツのことをわたしはまったく知りませんでした。だから、チカがこのスポーツを志したきっかけになったあのテレビ中継の説明もイマイチぴんときませんでした。
それでも、おもしろい! チカという青年がとってもおもしろい。
スポーツをやる人間なら勝ちたいに決まっている、自分がトップに出たいに決まっている、そのために努力をしているんじゃないか。そう思っていました。
ましてスポーツ小説(そういう本だと思って読み始めたのです)の世界で、こんな無欲な主人公、見たことないです。自ら極上のアシストを目指す人間。自分以外の誰かを輝かせるための(あえていえば)風よけの道を進もうとしているなんて。

物語前半(第5章まで)は、青春スポーツものだ、と思って読みました。チーム・オッジのメンバー達もかなり魅力的。ちょっと不穏な影がちらちらしないこともなかったのですが、そんなことはすぐに忘れました。
ツール・ド・ジャポン、伊豆のレースの清清しいこと。これでおしまいでもいいんじゃないか、と思うくらい。
そして、「さっぱりわからん」と思っていたロードレースという競技がすばらしい(または一風変った)団体競技なのだ、ということも少しずつ分かってきました。
「総合優勝はもう手に入らない。だが、それを悔しいとは思わなかった。これがぼくの走りだ。」とのチカの誇らかな言葉に感動し、そのあとの赤城や伊庭のサポートに感動し、「頭の上の空は、高く、雲ひとつなかった」に良い気持ちで選手達と一緒に空を眺めた。

だけど、その第5章のあと、「インターバル」として、不安の影が形になって降りてきます。最初のあの事故の場面が蘇ります。
あの冒頭の場面がどのタイミングで現れるのか、と後半はずっとどきどきします。
この本は青春スポーツ小説ではないのだ、ということに今更ながら気がつきました。
次第次第にサスペンスの色が濃くなっていくなか、さまざまな人間のさまざまな面が見えてきます。今まで見えなかった色々な面が。
決して犯人を糾弾するとかそういうことではない。
サクリファイス(犠牲)って、そういうことか。これはひとの気高さ、尊さを問う物語だったのです。
そして、作者が、この物語の舞台をあえてロードレースの世界にしたのもそういうわけなのだ、と深く理解できるのです。
また、物語の語り手であるチカが表に立つことよりもアシスト的な役割を果たす人間であることも、相応しい役柄だったんだ、と思う。
もし、この小説の背景にロードレースの世界がなかったら、気高さなんて恥ずかしくて言えなかったと思う。大げさに過ぎるような気がして。
そう思うわたしの日常は、気高さ、尊さという言葉からなんと遠いところにあることか。