屋根にのるレーナ

屋根にのるレーナ屋根にのるレーナ
ペーター・ヘルトリング
上田 真而子 訳
偕成社
★★★


パムとマムはけんかばかり。レーナは不安で不安で仕方がない。二人は離婚するかもしれない。そしたら、レーナとラルスの姉弟の「ふよう権」というものが問題になるのだそうだ・・・

親たちがもとのようではなくなっていく。それは子ども達にはどうしようもない。だけど、そのことで彼らがどんなに傷ついているか。レーナやラルスの気持ちを丁寧になぞっていきます。
父と母だって傷ついている・・・だけど、それは自分たちの問題なのだもの、辛くても苦しくても受け止めなくてはならないはず。(本当は二人ともわかっているのですよね。)
でも、子どもたちは、自分たちには関係のないことでこんなにも傷ついているのです。
なのに、その原因になっている父と母を愛し、父と母の流している血に敏感に反応し、彼らの痛みをわかろうとしている。そしてそのためにさらに深く悩み傷ついていく。
いったいどちらが子どもなのだろう。
たくさんの抵抗、たくさんの手紙、たくさんの意思表示・・・子どもたちの不安も痛みも、ほんとうに親に届いているのだろうか。
確かに両親の離婚の「原因」は決して子どものせいではない。だけど、そういうことが起こった「結果」は、子ども達が抱えなければならないのです。なんと言う理不尽。(こういう子どもの感じる理不尽さって、他の状況でも、たくさんあると思うのです)

いや、私も親なのだ。私だって子どもを大切に思っている。大切に? 大切ってどういうこと? 
子ども達のことをいつまでも私の手の中の宝、と思っているじゃないか、と痛いところをついてくる。自分の宝=自分のもの。だから自分がずっと持っていたい。持っている権利がある、と心のどこかで思っているのではないか。そんなこと絶対にない、と言い切れないのが辛い。
「扶養権」とか「子どもの権利」という言葉に抵抗するのは、そういう大人の魂胆が見え見えだから。
だけど、子ども達は成長する。自分よりもずっと大きくなっていることにある日、親は驚き、不思議な気持ちで子どもを眺めたりするのかもしれません。

子ども達の成長を知り、その力を借りて初めて一歩踏み出すことができる親。それでも、子ども達はいつのまにか親の痛みをわかろうとするほどに大きくなっているのだということを、親たちは惨めさの中でかみしめたい。