エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死
スティーブン・ミルハウザー
岸本佐知子 訳
白水社
★★★★


副題「あるアメリカ作家の生と死」とあるように、作家エドウィン・マルハウスの伝記です。書き手はジェフリー・カートライト、ということになっています。そして、この本が長い間、絶版となっていたものをウォルター・ローガン・ホワイトという人物が発掘して、再版にこぎつけた、ということになっています。このすばらしい伝記作家ジェフリー・カートライトの行方は現在のところ杳としてわからないようです。
しかし、注目すべきは、この伝記の主人公たるエドウィン・マルハウス、というのは実は11歳で亡くなった少年であり、さらに、伝記作家ジェフリー・カートライトもまた、11歳(エドウィンより半年早く生まれている)だということなのです。

輝ける稀有の天才作家、夭逝の逸材エドウィン・マルハウス。
そして、エドウィンの幼馴染で、執拗に彼の生涯を追うジェフリー・カートライト。
大人びた文章、天才と呼ぶに相応しいジェフリーの文才に舌を巻きながらも、そこかしこに見られる少年らしさ(大人の伝記のパロディっぽさ)ににやりとさせられます。
たとえば、彼は、エドウィンの11年の人生を「幼年期(0歳〜5歳)」「壮年期(6歳〜8歳)」「晩年期(9歳〜11歳)」にわけ、この本を3章に分けて書いているところなど・・・

けれども、この本を読むほどに、実はエドウィンは、ほとんど凡庸な人物である、ということが浮き彫りになってくる。
そして、ジェフリー・カートライトの特異な才能(まさに天才)に引き寄せられてしまう。彼のエドウィンへの密やかな侮蔑(?)も執念も狡猾さも。そして友情やその裏返しの嫌悪感の入り混じった複雑な愛情も・・・何よりも自己愛も。
彼はエドウィンの人生を追いながら、いえ、追えば追うほどに、常に(一見慎み深そうな)傍観者の立場にある自分自身を際立たせていたのです。
天才と呼びながら実は凡庸なエドウィンと、観察者に徹しながら実は非凡なジェフリー。ジェフリーは書きます。

>この伝記の目的は一人の人間の人生の表面だけをなぞっているのではなく、内なるシナリオを読むことであり、上っ面の特徴を描写するのではなく、目に見えぬ魂を描き出すことにあるのだから。

>伝記作家の果たす役割は、芸術家のそれとほとんど同じくらい、あるいは全く同じくらい大きいのではないだろうか?なぜなら芸術家は芸術を生み出すが、伝記作家は、言ってみれば、芸術家そのものを生み出すのだから。

こんな文章を書く11歳、こわくないですか?エドウィンが、彼の伝記作家のことを言った「ふう!伝記作家って、悪魔だな」に、うんうんと頷いてしまいます。
この悪魔の少年が描き出す子供の世界の凄さ。
ある意味甘美、といえるのかもしれないけれど、暗雲たれこめるようなその時代をわたしたちは忘れてしまったのでしょうか。
子供時代を明るく純なものと感じたいのは、時の魔法と感傷のせいかもしれません。実はかなり気味悪くて、つらく、でもそれだけに悪魔的に甘やかな子供時代があったのだと、ほんとうは知っているのに、生々しすぎてあえて目をそらしたい・・・
そんな気持ちをあざ笑うように、苦々しいまでに描写される子どもの日常と狂気。
悪夢にうなされて目覚めた朝のことを思い出します。大人になって、あんなにハチャメチャに怖い夢を見なくなったことなども思いながら読みました。
だけど、何よりも冷たいまでの冷静さでこういうことを描写していく11歳の少年の筆が怖い。そして、その冷静さの陰に、隠しているジェフリー自身の狂おしい妄執がちらちら覗いているのを感じて、ぞくぞくしてしまいます。しかも読み終えてみれば、その覗かせ方が全部彼の計算ずくであったことに気がついて、そらおそろしくなる。
>実に興味深い少年であり、これからもじっくり付き合っていきたいと思っている。
との、最後の一文を読み終えたとき、ぞぞっとした。
にわかに、これまでの文中のあちこちに散りばめられたあれやこれやの破片がつながっていくような。
エドワード・ペンはなぜ・・・?
ローズ・ドーンはなぜ・・・?
アーノルド・ハセルストロームはなぜ・・・?
そして、エドウィン・マルハウスは、なぜ、なぜ、・・・?
それはきっと、それはきっと、それはきっと・・・(それでも、にぶいわたしは、杞憂かもって、まだ疑っているのですが。)

ああ、おそるべき子供の日々。ああ、おそるべきミルハウザー