アイヌ神謡集

アイヌ神謡集 (岩波文庫)アイヌ神謡集
知里幸恵 編訳
岩波文庫
★★★★


>銀の滴降る降るまわりに、
金の滴降る降るまわりに
テレビから聞こえてくる詩の朗読に、夕飯の支度をする手を止めました。
ほんのちょっとの聞きかじりでしたが、その美しい響きに驚きました。
そして、この詩句の入った本を読みたくて、慌てて書名と筆者名をひらがなの走り書きで書き留めました。
これが「アイヌ神謡集」と出会ったきっかけです。


アイヌ神謡集・・・アイヌに伝わる古い神話や歌(ユカラ)を集めた本、大正11年に出ました。これを著したのは知里幸恵という19歳の少女でした。
これが幸恵の初めての本であり、絶筆でもあったのです。この本の原稿の推敲中に、持病の心臓の病気で亡くなったのでした。
幸恵自らがアイヌ民族であり、小さいときから祖母たちに聞かされてきたアイヌの伝承物語・・・これをローマ字表記し、そこに和訳を対訳という形で添えたのです。
美しく、また丁寧な日本語で書かれたアイヌの神話たち・・・


「金の滴降る降る」と歌いながら飛ぶ梟の神、おおらかに懐の大きい海の神、「トーロロ、ハンロク、ハンロク」と歌う蛙の話は、きつねに食べられたおだんごパンの話によく似ています。そして、小さな弓矢を持って駆け回る子供達や、真正直に生きようとする猟師、弓で獣(神)を射ることを「神が矢をお受け取りになった」と表現するその自然に対する謙虚な古人の生き方、など・・・
日本の北のはずれに、こんな神話が眠っていたのかと目を瞠りました。純粋にただ「昔話」として、この世界をおおいに楽しみ、繰り返される言葉を詩とも歌とも思いながらそのリズムに素直に気持ちよく揺られていたのですが・・・
知里幸恵さんの美しく力強い序文に心を動かされました。

>その昔この広い北海道は、私たち祖先の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったことでしょう。

>・・・・太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々と暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ・・・・おお亡び行くもの、それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。

>時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強い者が出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。

幸恵さんがこの本の編訳にたずさわったころ、アイヌは「滅びる」ことを強いられ、和人たちによって土地も財産も職も文化さえも奪われ、蔑まれ、謂われない迫害を受けていたのでした。和人(アイヌという名に対して敢えてこの名で)としての私たちにとって恥ずかしく申し訳ない歴史の一つ。――日本は単一民族の国ではないのだ。忘れてはいけない。


知里幸恵さん。ほんの19歳の名もない少女が、この本を著した。
名もない少女は「亡びるべき劣った民族」と指差され、石を投げられながら、自らアイヌであることを堂々と証し、自らの血にも、同胞にも、誇りを持ち、胸を張った少女でもあったのです。
そして、この書は、多くのアイヌの人たちが民族の誇りと希望をとりもどすきっかけにもなったとのことですが、和人たちの心をもまたゆり動かしたはず。アイヌの文化の豊かさを知り、深く感動したはず。
・・・ローマ字表記と日本語表記、この二つを対訳という形で、並べてページに載せることの意味はなんでしょう。
知里幸恵についてもっと知りたくてあわせて読んだ、「知里幸恵アイヌ神謡集』への道」のなかで、池澤夏樹さんは次のように書いています。

>翻訳という作業が本質的に人と人をつなぐ営みだということだ。(中略)それを訳すという労力を払うのは予想される読者への信頼があって初めてできることだ。和人にさんざんな目にあった自分たちの歴史を知りながら、知里幸恵はなおも和人たちに理解を求めた。アイヌ文化の価値を和人に提供して、そこに一方的な抑圧と収奪の歴史を変える糸口を見出そうとした。
「人と人をつなぐ」という言葉にわたしは心動かさせられます。これを他ならぬアイヌの人のほうから差し出されたのだ、ということに。しかもそれをしたのが19歳で逝った小柄な少女であったということに。


もしも知里幸恵が永らえたなら、このあとの人生をどのように送っただろうか、と考えます。この才能をこんなに早くに摘み取られた悲しみ。
けれども、彼女がこの世に置いていったこの小さな小さな本をきっかけにして、たくさんの人々が自分の物語をつくりはじめています。
たとえば、「知里幸恵アイヌ神謡集』への道」という本の中には、知里幸恵に縁のあるたくさんの人たちが文章を寄稿していました。
こうして、様々な人たちが様々な方向から知里幸恵に光をあてようとしている。知里幸恵を語ることによって自分の物語を語ろうとしているように思います。(ちょっと、この間読了した「生きるとは、自分の物語をつくること」を思い出しつつ)
アイヌ神謡集」というこの一冊の本はこんなに小さいけれど、こんなにも重いのです。


知里幸恵「アイヌ神謡集」への道知里幸恵「アイヌ神謡集」への道
財団法人北海道文学館 編
東京書籍
★★★