不運な女

不運な女不運な女
リチャード・ブローディガン
藤本和子 訳
新潮社
★★★


>ホノルルの静かな交差点の真ん中に、新品の女物の靴がひとつ転がっているのをわたしは見た。
というフレーズから始まる。この光景が読中ずっと目の前から離れない。・・・なぜここに新品の靴が落ちているのか。しかも片方だけ。・・・そこから見えてくる靴の物語は、どうしたって悲劇でしかない・・・
この靴の持ち主についての物語が始まるのか、と思えば、いきなり、この靴の持ち主のきわめて親しい「わたし」の脈絡のない旅の物語になる。
最初のうちこそいちいち立ち止まって意味を考えようとしたけれど・・・意味などない。
ほとんど意味などないのだ。ほんとうに脈絡もなく、時間の流れさえ分断し、あっちにとび、こっちにとび・・・最後の最後にいたるまで延々と。

読みながら困惑してしまう。
・・・困惑?・・・そうではない。
その意味のない言葉が続けば続くほどに、その言葉の後ろに隠された悲しみの深さ、失ってしまったものの重さ、痛み・・・そんなものが浮き彫りになってくるのでした。
悲しみ、重さ、痛み・・・こんな言葉、ただの一行だって書いていない。
「だからそれがどうした!」といらいらしながら怒鳴りたくなるほどに、ひたすら馬鹿馬鹿しいまでの日常を克明に叙述するばかり。
こんな方法で亡くなった人を悼む小説は初めてでした。

ただ、わたしにはやはり、この長さは饒舌に感じられたのでした。
物語の頭に、まるでプロローグのように書かれた作者の長い長い献辞・・・
ここに、作者はひとりの女友達を失ったことが記されている。
この女性の死を知った作者は呆然としながら、唐突に思い出したのは、冷蔵庫の中の西瓜。
この西瓜を近隣の友人の家に持っていく。
丁寧にその西瓜の食べ方を伝授しようとした矢先、その友人に今寝室に服を着ていない恋人を待たせているのだ、と告げられる。
自分の置かれた立場の間抜けさ加減を作者は笑いたい。それをだれかといっしょに笑いたい。それができる唯一の相手である君はいないのだ、という言葉。
その君に捧げられた本なのでした。これは。

・・・そして、この献辞がなければ、わたしはこの本を途中で投げ出していたに違いないのです。
この本の内容は、まさに作者にとっての「西瓜」だったんだ、と思うのです。
でも、長すぎた。西瓜は、わたしには少し熟しすぎているように感じられました。
ただ、いつまでも最初のフレーズの、外国の見知らぬ町の交差点にぽつんと置かれたあの靴が、あざやかな映像となり、いつまでも残ります。