海に住む少女

海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)海に住む少女
ジュール・シュペルヴィエル
永田千奈 訳
光文社古典新訳文庫
★★★

お伽噺を語るような静かでゆったりとした美しい文章の短編集です。
だけど、この美しい言葉で書かれた物語はあまりに静かすぎました。
どの作品のなかにも死があり・・・その死がとても美しいのです。現実の生よりずっといきいきしていて、魅惑的なのです。
これはなんだろう。
どの物語でも大変静かに死を受け入れていることが今のわたしには少し不安でもあります。生は苦しみであり、死という解放に向かうための重荷のよう。

「セーヌの名なし娘」のなかで描かれた浮かび上がれない足のおもり、という表現に、読んでいて息苦しくなりました。
また死んで流れていきながら微笑むこの娘の笑みは、生きているときより力強い、という表現にざわざわするものを感じました。読みこなせていないのですが、それでも気になって忘れられない不思議な作品です。

一番よかったのは「飼葉桶を囲む牛とロバ」なのです。
牛の美しい祈りをさえぎる不協和音をあるがままに受け入れる日々が心に残ります。なんという謙虚な生き方だろうか。美しくて静かな余韻とともに切なさが募りました。ああ、愛しい牛。

表題作「海に住む少女」、寂しいながらもとても透明感があります。この透明感が好きです。この透明感は少女の無垢さのせいもあります。最後の一文がよいです。寂しい夢。忘れられる悲しみ。夢を見た人をもう慰めることはないし、夢そのものも決して満たされず、双方ただ消えていくのを待つしかないのかな・・・

「牛乳のお椀」の、青年が母親のところに運ぶお椀は、「セーヌの名なし娘」の足につけられた錘に似ています。そして来る日も来る日も繰り返すその行いは、「海の上の少女」の日々のルーティンワークと同じです。
ここに描かれる生は、決して「生きる」ということにつながりません。むしろ死を写す鏡のような感じで、死のほうがずっとリアルなのです。
生きることの皮肉も描かれていますが、それも静かで、決して意地悪いものではありません。それがかえって、置き去りにされたようで怖くて寂しい。

訳者あとがきのなかで

>はっきりと言及されていなくても、そこには「何か」がある。そして、また無理に言葉を重ねるほど、その「何か」は遠ざかってしまうのだ。
と書かれています。また、
>悲しみでも苦しみでもない、切ない気持ちで胸がいっぱいになり・・・
とも。そういう言葉たちが、そのまま、今の私の読後感になりそう。でもこのささやかな物語たちはあまりに謙虚すぎて、きっと忘れてしまうにちがいない、とも思っています。そして忘れ去られる事こそこの本の希望なんじゃないか、それがこの静かな本の唯一の主張なんじゃないか、そんな気がしてしまいました。
忘れ去られてもなお残る「何か」があるとしたら、作者はもしかしたら書くことによって、それを探しているのかもしれないとも思いました。