わしといたずらキルディーン

わしといたずらキルディーンわしといたずらキルディーン
マリー女王
長井那智子 訳
春風社
★★★


作者マリー女王とは、イギリスの王女、ヴィクトリア女王の孫だそうです。のちにルーマニアの皇太子のもとに嫁ぎ、王妃となったそうです。
そして、この本が「わし姫物語」として日本に紹介されたのは昭和17年で、そのときの訳者は、この本の訳者長井那智子さんの祖父だそうです。
訳者あとがきに書かれたさまざまな縁から、晴れてこの本がこうして出版されるようになった事情、それがなんだか運命的なめぐり合わせめいていて、それだけで一つの物語のようでした。

とても美しい本です。装丁が凝っている上に、ふんだんに盛り込まれたクラシックな挿絵がこの本の雰囲気にぴったり合います。
マリー王女がルーマニアに嫁いだころの事情なども訳者あとがきには書かれていました。そのころのルーマニアは、イギリスから見たら辺境の地であったこと、初恋の従兄弟(のちのイギリス王ジョージ一世)と結ばれることなく18歳で、結婚したことなど。また、この物語がマリー王妃の自伝的物語、と言われていることなどを読みました。

以上のことを下地にこの物語を読めば、キルディーンのひとりぼっちの寂しさ、塔の閑散とした風景など・・・マリー王妃の疎外感のようなものと重なって胸がふさがれるような思いがします。
マリー王妃は、どんな気持ちでこの場面を書いたのでしょう。
ひとりぼっちのキルディーンが、まどの近くに坐って月や星をながめながら、様々な冒険に満ちた物語を想像する場面からもまた、マリー王妃の日常を重ねてしまいます。
マリー王妃もまた、キルディーンのような思いで、たくさんの物語を考え付いたのかも。そのなかのひとつがこの物語だったのでしょうか。
物語ることで、自分を見つめ、解放することができたのかもしれない、と想像しています。

塔にひとりぼっち、というあたり、グリム童話の「ラプンツェル」を連想します。ときどき最近読んだ「私の美しい娘―ラプンツェル」の、ツェルの塔での生活を重ねていました。
また、わしの王様との友情(?)が深まっていくさまにある種、ロマンティックなイメージが湧いてきます。(蛇足★このあと、良い子になったキルディーンの前でわしの王様が美しい青年の姿に変り、二人はめでたくウェディングベルを鳴らしました、というのはどう? あ、でもこの王様は実は妻子持ちでしたね)

古典的な王道のような物語で、安心して読めます。でも、実は、寓話的であり、かわいらしい小さな冒険のひとつひとつが、子どもが一人前になるためのさまざまな条件や試練を表しているそうです。

最後のキルディーンとポプリおばあさんとのやり取りが好きです。おばあさんのことば、

>あたしは人の権利ってものを信じてるし、王冠がなくたって、りっぱな服を着ていなくたってお辞儀くらいはするんだよ。おてんとさまはあんたのためだけじゃなくて、あたしのためにも光ってるんだ。とっとと宮殿にお帰りよ。働くってことには、上も下もないんだよ。考えてもごらん。ちょっとした神さまのいたずらがあんたを王家の人にしたんだし、このあたしを町の傘の下においてるってだけなんだから。
・・・教訓めいた言葉ではあるのですが、でも、こういう言葉を、一国の女王(王妃)が書いたんですよね。こうして、マリー王妃は心から女王となったのでは、と思っています。
わしに心開いていくキルディーンさながらに。

一番最後に配されたカラーの絵が好きです。かわいらしい王女がスカートの両端をつまんで腰をかがめて挨拶をしている絵です。この顔の美しいこと。
これまでのどの絵のなかのキルディーンもたいそうかわいらしかったのですが、これはかわいらしさがちがうのです。理性のかけらもない放逸な可愛さではない、りんとした美しさが内側から現れているような、ほんとうに美しい王女の姿でした。