猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ猫を抱いて象と泳ぐ
小川洋子
文芸春秋社
★★★★★


いしいしんじ作「麦ふみクーツェ」の「へんてこでよわいやつはさ・・・」という一文がふと浮かんできました。
小川洋子さんのこの本に出てくる人物もかなりへんてこです。
上唇と下唇がくっついたまま生まれてきたという主人公は生まれてすぐの手術の名残りで唇に毛が生えている。
廃バスを住居にした巨体のマスターは太りすぎてしまって亡くなったときにはドアから外に出ることができなくなってしまう。
身体の一部のように布巾を手放さない祖母、
住居と住居のわずかなすきまに挟まれて誰にも知られず死んでミイラになった少女の伝説・・・
悲しくてこっけいで、思わず目をそむけたくなるような姿形のものたち・・・一見して醜悪なものたちですが、その姿は、神の慈愛の賜物のようでもあり、その姿に宿っているのは、臆病なほどの慎ましさ、深いやさしさや、こちらが一歩ひいてしまうほどの叡智。人の心をつきぬけて輝くようなひらめき・・・そのすべてを「美しい」と言いたい・・・

チェスの世界の物語です。
主人公は、一言で言えば天才チェスプレイヤーです。ロシアの伝説のチェスプレイヤーで「盤上の詩人」と謳われたアレクサンドロ・アリョーヒンの再来といわれ、彼にちなんでリトル・アリョーヒンと呼ばれます。
けれども、彼を知る人はほとんどいませんでした。彼の棋譜もただ一枚を残すのみ、彼の姿を見た人もほとんどいなかったのです。
なぜなのか、この物語を読めばわかります。タイトルの「猫を抱いて象と泳ぐ」の意味もわかります。
語り始めたら、感想を書くよりも、くどくどとしたあらすじの羅列になりそうで、それだけで、この本の調和した世界の美しさを壊してしまいそうなのです。

リトル・アリョーヒンの棋譜を語る小川洋子さんの文章は限りなく美しくて、その美しさに興奮して、先を読みたいのに、思わず本を閉じて、ため息をついたり、身体を動かしたりしました。
気もちを落ち着かせて興奮を鎮めなければ先を読むこともできませんでした。

8×8の黒と白の盤は海。その海に深く泳ぎ、深く泳げば泳ぐほど暗い闇と孤独しかないのに、突き詰めた先にあるのは、むしろ明るい光とぬくもり。

リトル・アリョーヒン、この心優しい孤高の青年はほんとうにそこにいながら、そこにいる気配を消し、自分の存在すべてを消し去りながら、妙なる音楽を奏で、さらなる高みをめざしました。
彼が盤下(盤上ではないのです)で奏でる音楽の音色が冴え渡り、その名声が大きくなればなるほど、彼は小さくなっていく。彼の小ささが愛しくて、その小さな身体の中に広がる無限の宇宙が神々しくて。小さな身体で大きな宇宙を抱くその謙虚さがまぶしくて・・・

心に残るたくさんの場面。象徴的なものや言葉達。
祖母の布巾、ずっと主人公の心にひびく「あわてるな、ぼうや」という言葉、老女の堂々とした足音、物言わぬハト、リトル・アリョーヒンとミイラが交わした変わった文通・・・そこにこめられた意味を考えると、愛しさと切ない思いに、胸がいっぱいになります。

もっと光の当たる場所に出て行くこともできただろう。富も名誉も賞賛もほしいままにすることもできただろうに。
彼はそれを求めませんでした。そういう野心はありませんでした。ただ極上のチェスを指すことだけしか望まなかった。
対戦相手の音楽を聴き、相手と共鳴しあって美しい音楽を構築しようとしていたのでした。
もし、わたしにチェスが指せたなら。もし彼に相手をしてもらえたなら。そうしたら、きっとわたしのつたない指先から、彼は天上の音楽を引き出してくれただろうに。勝ち負けよりも尊いものを。

>皆、自分に一番相応しい場所でチェスを指しているんです。ああ、自分の居場所はここだなあ、と思えるところで。
思えば、リトル・アリョーヒンの一生は最初から「死」をみつめていました。
それは(忘れがちですが、)わたしたち生きとし生けるもの、すべてのものに通ずるのだと思うのですが。
「深海」「盤下にもぐる」・・・これらはみな「死」を指しているように思うのです。
そして常に死を見つめ続けるからこそ、束の間の生が、かすかな生が、闇の中で輝きまさるのかもしれません。

そんな死に方をした、そんな生き方をしたリトル・アリョーヒンだったと忘れないでいたい。