詩のすきなコウモリの話

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詩のすきなコウモリの話
ランダル・ジャレル
モーリス・センダック 絵
長田弘 訳
岩波書店
★★★★


夏の終わり、いつもいっしょだった仲間たちが、ポーチから納屋に引っ越して眠ってしまったあと、一匹のコウモリだけがポーチに残りました。
ひとりぼっちは嫌なのに、一人ぼっちで残る。どうしてもここじゃなければだめ・・・ちょっと変わっているのかもしれないけど、なんとなく彼の気持ちがわかるような気がします。彼はやっぱり生まれながらの詩人なのかもしれません。
居心地のよい大切な仲間たちから離れてもポーチに残ったコウモリの寂しい気持ちが、孤独が、自分のまわりのさまざまな美しいもの不思議なものに気づかせ、そのことについていろいろと思い巡らさせます。
そしてコウモリは、森で出会った様々な動物の営みについて詩を作り始めました。
でも彼は、自分の詩に自分だけで満足するのではなくて、聞いてくれる人がほしかったのです。その人のための詩をつくりました。
ときに相手を喜ばせ、怒らせ・・・自分もまた喜んだり怒ったり悲しんだり・・・なぜだろうと思ったり・・・

彼にとって詩って何?

>じぶんたちのことがぜんぶ、ちゃんと詰まってる詩なら、だれだってきっと好きになるもの
それは、友だちとの出会いでもあり、
詩をつくることで、相手を深く知ろうとし、自分を知ろうとすることでした。
自分を知るためのこんなに美しい方法・・・。
静かで深い自然のなか、シマリスとの友情が心に沁みます。

物語の最後のコウモリの詩は、自分の詩であり、仲間達のための詩でした。それは美しいというよりやさしく沁みてくる温かなぬくもり。まどろみながらうたうに相応しい詩。
(どの詩も本当に美しいのですが、最後の詩は特別なのです)
この詩をシマリスに聞かせる場面に配された見開き一杯のセンダックのさし絵がすばらしいのです。
静かで美しくて、ちょっと不思議な雰囲気があるのですが(それだからこそ)何もかもがあるべき調和の中に憩っているようで、なんともいえない安らぎを感じます。
実は、訳者あとがきで、この絵についてのすばらしいエピソードが紹介されています。
ジャレルとセンダックがコウモリとシマリスに思えてきます。
そうそう、シマリスはセンダックのように絵が描けるのだ、と確信してしまいました。画材を使わなくても、彼はその素直で曇りのない目で、彼だけに見える方法で、コウモリの詩から絵を作り上げていたのだと思うのです。
コウモリの詩をシマリスは感じ、シマリスの絵をコウモリが感じ・・・彼らの友情はそういう友情。そんな気がしました。

冬の眠りの中で、コウモリの見る夢もきっと美しい詩だろう。そして目覚めたときに彼が一番最初にうたう詩はなんだろう。仲間といっしょのよろこび。友だちとの再会も楽しみな春。
・・・おやすみ、コウモリ。今はゆっくりと。
美しい言葉でゆったりと語られるやさしい物語。訳がとっても美しいです。

わたしはコウモリが好きではありませんでした。
夏の夕方、ばたばた飛び回る黒い塊たちのことを嫌だなあ、と思って見ていました。
でも、なんだかコウモリを別の目で見られるような気がしてきます。
そういえばこの夏、わたしはコウモリには気がつきませんでした。いたのかどうかさえ気がつきませんでした。
案外ものをぼんやりとしか見ていない自分に気づきました。