縞模様のパジャマの少年

縞模様のパジャマの少年縞模様のパジャマの少年
ジョン・ボイン
千葉茂樹 訳
岩波書店
★★★★

大都会のベルリンから引っ越してきた見知らぬ土地で、軍人の息子ブルーノは、遊び相手もなく退屈な毎日を送っていた。ある日、ブルーノは探検に出かけ、巨大なフェンス越しに、縞模様のパジャマを着た少年と出会う。ふたりの間には奇妙な友情が芽生えるが、やがて別れの日がやってきて・・・
     (カバーの扉に書かれた紹介文)

物語は、ずっとブルーノという9歳の少年の視点で描かれます。特別ではない、どこにでもいる普通の男の子です。
この場所がどんな場所なのか、彼らはどういう人たちなのか、また父親の仕事はどんな仕事なのか、大人に与えられた価値観の意味・・・ブルーノが知らない事柄は、明確に書かれていません。読者にも知らされずに物語は手探りですすみます。
自分を取り巻く世界で何がおこっているか知らされないことに彼は不満ですが、どうしようもありません。9歳なのです。
その小さな世界のなかで、彼は一生懸命感覚をとぎすませます。
傷つきやすさ、傲慢さ、孤独、友情・・・そして小さな世界ゆえの危機・・・彼は9歳なりに自分の見たもの聞いたもの、体験したことから、さまざまなことを感じ、さまざまなことを考えるのですが、時にその危なっかしさにはらはらしないではいられません。

明確に書かれていないことはほかにもあります。
ブルーノの目にうつるままに描写された彼の周りの人々。彼らの事情、そしてほんとうは何を考えていたのか・・・ほんとうはどんな人だったのか。これらも9歳の少年の目に映った描写のむこうに広がる深くて広い(ときにはあまりにも暗い)世界を不気味に垣間見せられるような気がします。
おとうさん、おかあさん、メイドのマリア・・・そして、誰よりもフェンスの向こうの少年シュムエル・・・そのときどきにシュムエルがほんとうは何を考えていたのだろう、と考えると、その重さに思わずあえいでしまうのです。
ブルーノがごく普通の男の子であればあるほどに、シュミエルの「今」が痛々しくて、彼らの会話をみていられなくなってくる。
彼らの友情が美しいというより怖い。

最後の章。
ここまで、子どもの視点で描かれてきたやわらかな言葉使いの物語のベールがぬぐいさられ、作者のゆるがぬ厳しい視線をわたしたちは改めて直視します。
縞模様のパジャマって何なのでしょう。
みんなおそろいの縞模様のパジャマ。同じように刈り上げられた髪の毛。みんな同じように見える、ということ。それは、
    >「そもそも連中は人間でもないんだよ」
とさらりと言い切れる「かたまり」に、人間を変えてしてしまえるものでした。彼らは、あの人たちにつけたレッテルを一目で見える形に視覚化したのでした。
これがナチスの大量殺人工場の効率的な運営方法だったのだ、と考えてぞっとしました。
わたしたちは気づくのです。
縞模様のパジャマを着た瞬間から個人ではありえなくなる。人種も国も職業も家族も経歴も何もかもなくなる。
あの人たちに縞模様のパジャマを着せた彼自身もまた、いや彼が自分自身よりもっと大切にしているものもまた、他ならぬ自分自身によって同じ縞模様のパジャマを着せられていたことに気づく・・・とりかえしのつかないそのときになって。
これ以上の皮肉ってあるでしょうか。

この物語はブルーノの視点から始まりましたが、誰の視点からも語れるように思うのです。おとうさん、おかあさん、メイドのマリア、シュミエル少年、あのいやらしいコトラー中尉でさえ。そして、その人によって、まったく違った切り口のまったく違った物語が語られることでしょう。
けれども行き着く場所は同じところ。同じ場所。それしかない。それほどに重く衝撃的で皮肉な物語だったのです。
そして、もしかしたら、現代、わたしたちもまた同じ物語を語り始めてはいないか・・と、ときどきわが身を振り返ってみることも必要なのではないでしょうか。