わたしの美しい娘―ラプンツェル

わたしの美しい娘―ラプンツェルわたしの美しい娘―ラプンツェル
ドナ・ジョーナポリ
金原瑞人・桑原洋子 訳
ポプラ社
★★★★

グリムの昔話「ラプンツェル」を芯にして、少女ツェル(ラプンツェル)、母(魔女)、コンラッド(伯爵の子息)という三つの視点を縒り込んで紡ぎあげた物語です。

16世紀半ば、スイスの人里離れたアルムでの母娘の牧歌的な生活。無邪気で人懐こい娘ツェルは本当にかわいくて魅力的。
母親の娘に対するまなざしは愛情にあふれ、平和そのもの。
この静かな陽だまりのような物語に不穏な雲がたちあらわれるのは、町の鍛冶屋でツェルとコンラッドが出会ったあとだった。

この物語を読みながら、惹かれてしまうのは、母である魔女。狂おしいまでの愛情。大切な娘を塔に幽閉してまで自分の手許に置きたいと望む狂気の愛。執着。妄執。「わたしだけを愛して。わたしだけに情熱を注いで」と。抱きしめれば抱きしめるほどに、虚しく拒絶されるものを。
だけど、思わずにいられないのです。
魔女になるしかなかった、最後には自ら命を絶つしかなかった女の深い悲しみ、孤独、絶望。

>それなのに女は、母親になりたくてたまらなかったのです。全身の血も、肉も、毛の一本一本にまでも、そして吐き出す息のすべてにも、その思いが満ちていたのです。
そして、この女の悲しい母性とあいまって、
来る年も来る年も決して孵らない石の卵を抱き続けるかもの話が印象的でした。
「何も答えてくれない」と、女が背を向けた神でしたが、神の声は彼女のすぐそばにあったのかもしれません。
ツェルがコンラッドに求めた初めての贈物が、このかものための、生きた温かい卵であることもまた示唆的で。ああ、母と娘はこんなふうに繋がっている。こんなふうに残酷に。
ツェルがずっとほしがっていた動物と話すことのできる力は、もしかしたら、ツェルよりも母にとって必要だったかもしれない。
>わたしはツェルの育て方を間違えた。わたしは創造性のある好奇心旺盛な子どもに育てた。好きなことはなんでもやらせてやった。新しいことを見つけ、新しい能力が芽生えるたびに喜んで拍手した。人をたやすく愛し、その愛をだれでも返したくなるような子どもに育てた。それがこんなに恐ろしい結果を招くとは。わたしは子どもをわたしが知る限りの最良のやり方で育てた。そしてそのせいで今、あの子はわたしといっしょにいられないのだ。
昔話にのっとって幸せな最後の場面は、詩のように美しいです。これでよいのです。
娘は少女から大人になり、母を離れて自分の足で大地を歩き、自分の人生を生きるのです。これでよいのです。
だけど、読後のわたしには、いつまでも魔女になった女の声にならない叫びが余韻となって聞こえてくるのです。