青い鳥

青い鳥青い鳥
重松清
新潮社
★★★★★


村内先生と中学生たちが関わる8つの掌編。掌の中で大切に包み込みたいような物語が8つ、でした。
場面緘黙症と言われた子、クラスメートを自殺未遂に追い込んだ子達、先生を刺してしまった子、施設で育った子・・・そういうレッテルを貼るのは簡単。そう言ってしまえば、ほかの事が見えなくなってしまう・・・
居場所を失って傷ついた心を持った子供たち・・・この物語に出て来る子どもたちだけではありません。
普通の子たち、わたしたち、わたしたちの子どもたち――かけがえのないその人だけの心のかたすみには寂しさ、不安、突き刺さったままの小さな棘がしまってあるかもしれません。自分自身でさえ知らないうちに。「みんな」からはみ出して。
そんな心に、村内先生が呼びかけてくれる。「間にあって良かった」と。
そして何もいわず、ただその心に寄り添ってくれる。そばにいてくれる。

村内先生はあまり上手に話せません。だから、村内先生の話すことは「たいせつなこと」だけなのです。たいせつなことは、上から降るように与えられるわけではありません。
・・・寄り添っている「つもり」の言葉は心に刺さって余計に血を流させるものです。
村内先生は違う。どう違うのか・・・物語を読めばわかります。それは、お題目ではない、その子のためだけの言葉。あるときにはただひとことの「おはよう」かもしれないし「わからないんだよ、先生も」かもしれない。
つっかえつっかえ、本気で話します。
ほんとうに伝えたいことだけをほんとうに伝えたい子に、本当に伝えるべきときに、話すのです。

>たいせつじゃないけど、正しいこと、あるよな。しょうがなくて正しいこと、やっぱりあるし、ほんとうは間違ってるのに正しいことも、あるよな。
正しくなくてもたいせつなことだって、あるんだ。でも、たいせつじゃない、たいせつなことは、絶対にないんだ。たいせつなことは、どんなときでもたいせつなんだ。
・・・子どもたちの傷ついた心を丁寧に丁寧に掬い取るような物語が、素直に心に沁みてきます。安易な解決なんかない、子どもたちは自分で、きっと生涯かけて自分の傷と向かいあっていかなければならないのでしょう。でも、たったひとりで歩いていくのではない、かたわらに本当に寄り添ってくれる人がいる(いた)、ということは、この先の道を歩いていく勇気を与えてくれるでしょう。

最後の「かっこうの卵」では、22歳になった嘗ての教え子と再会します。ささやかな幸福を大切に地道に生きていこうとしている青年が、先生と別れのとき、今後も先生と連絡を取りたいと願い、先生の住まいについて何度も聞きますが、先生は、

>・・・縁があればまた会えるよ、と笑うだけだった。結婚しているのか、子どもはいるのかいないのか、答えは全部はぐらかされた。先生は、自分のことはなにも教えないまま、俺たちにたいせつなことを教えてくれる。
どこからやってくるかわからない、でも寂しい心のそばにそっといてくれる、ひとりぼっちじゃない、と。先生はまるで天使のようでもあります。だけど、わたしは思ってしまうのです。

もしかしたら、先生自身がまだまだ抱え込んでいるのでしょうか。誰も立ち入らせない固いからで守っている何かを。先生自身が一番さびしいのではないでしょうか。
そんな気がしてしまいました。


8篇、どの作品にも、心に残る場面や文章があったけれど、自分自身のための防備録として、

>嘘をつくのは、その子がひとりぼっちになりたくないからですよ。嘘をつかないとひとりぼっちになっちゃう子が嘘をつくんです。
嘘は、悪いことじゃなくて、寂しいことなんですよ。
>人間は大人になる前に、下の名前でたくさん呼ばれなきゃいけないんだ。下の名前を呼んでくれるひとがそばにいなきゃいけないんだ。
草野心平の詩集をわたしも読んでみたくなりました。