ミルン自伝 今からでは遅すぎる

ミルン自伝 今からでは遅すぎるミルン自伝 今からでは遅すぎる
A・A・ミルン
石井桃子 訳
岩波書店
★★★★


まず、本文の前に訳者あとがきを読んでしまいましたので、あとがきの感想から書き始めることにします。
というのも、わたしにとっては、このあとがきを読まなかったら、本書に対する食指もわいてこなかったはずなので・・・


石井桃子さんが90歳になって、改めて「クマのプーさん」の作者の自伝を訳そうと思ったほどに、
クマのプーさんは彼女にとって大切な本でした。
石井さんの「プー」に対する思い入れは、
少し前に読んだ「幻の朱い実」に重複する部分があり、
改めて、彼女にとってのこの本の特別さに打たれました。
わたしもまた、A・A・ミルンという名前からすぐ思い起こすのはクマのプーさんを初めとする数冊(4冊?)の子どものための作品です。
(膨大なミルンの他の著作は、申し訳ないけれど、
この自伝読了後の現在でさえ、たぶん手に取りたい、という気持ちはあまり湧いてきません。)



全巻にわたって、ユーモアにあふれた自伝で、楽しくミルンの半生の森を散歩させてもらったような気がしました。
わたしは、この本の中から、百町森の声の片鱗を聞きたい、聞きたい、とずっと思っていました。
そして、確かに聞いたような感じがしました。
たとえば、フリーランス時代の若きミルンが、初めて『パンチ』編集者シーマンに呼ばれて、
編集助手の椅子と結構な報酬を提示されたくだり。

>私は、頭の中で簡単な算術をしながら、ありがたがっているような、大乗り気な様子をしようとしたが、びっくっりした顔はしないようにした。計算の答えは出なかった。そこで、計算は、帰りのバスに乗ってからすることにして、ありがたがっているような、大乗り気な様子をして、びっくりした顔はしなかった。
(まるでフクロかウサギの独り言を読んでいるようではありませんか)


でも、こんな読み方をされるのは、当然ミルンは好きではないらしいのです。
だって・・・と、また引用。

>鋭敏なる批評家たちは、私の最近の劇の主人公を、(情けないことに)「クリストファー・ロビンが大人になったような人物」と指摘した。このように、私が子どもの本を書くことをやめたあとまでも、私はかつては子どもであった大人を書こうと執拗に努めているということになっている。子どもとは、私にとって、何という、取り付かれたら逃れようのないものになってしまったのだろう。
・・・でも、また、そうはいっても、と、きわめて『プー』的な別の一文をわたしは見出します。はい、また引用。
>私は、ウサギを撃つことにした。(中略)
私はそっとウサギに近づいていって、ウサギが坐るまでまつことにしよう。(中略)
ウサギは穴の外に坐り、髭を磨いていた。私は適当にはなれたところに腹這いになり、私の指を引き金にかけていた。私は発砲した。ウサギは音のした方を見上げ、私を見つけた。そして、ほかのウサギに話しに、穴の中へトコトコかけこんだ。けれど、私は誇りをもって、ウサギの心を騒がしてやったぞと自分に言えると思った。
だけど、作者の意に沿おうが沿うまいが、だれだって子ども時代を抜かして、いきなり大人にはなれないではありませんか。
そして、それをよくご存知の作者だからこそ、
この自伝の中で、ご自身の子ども時代のことをもっとも多くのページ数を費やして語っているのではないでしょうか。
輝かしい黄金の日々。


お国では、ミルンのどのような作品がどのように評価されているのか、わたしは知りません。
でも、わたしのなかでは、いつまでも(作者の意に沿おうが沿うまいが・・・笑)
A・A・ミルン=「クマのプーさん」の生みの親、です。
そして、このプーに石井桃子さんがひょんなことから出会い、「訳してみよう」と決心されたこと――
その出会いが、この国の多くの子どもたちにも大人たちにもどれだけたくさんの幸福を運んでくれたことか。
作者の意に染まぬに違いない、わたしなりの読み方でごめんなさいね、でも訳者あとがきまでしっかりと大切に読ませていただきました。