いつか王子駅で

いつか王子駅でいつか王子駅で
堀江敏幸
新潮社
★★★★


  >しかし荒川線の真骨頂は、庚申塚あたりから飛鳥山にかけて民家と接触せんばかりの、
   布団や毛布なんぞが遠慮なく干してある
   所有権の曖昧なフェンスに護られたながいホーム・スレートにあり、
   運転席の背後に立ってこの直線を走るときの固いサスペンションを介して
   足裏に響いてくる心地よい振動と左右の揺れは乗合バスでも代替できるものの、
   横光利一ふうに言えば踏切を『黙殺』してトップスピードに乗り、
   火花が散るほどのブレーキングで滝野川シケインを抜けて、
   渋滞でないかぎり
   東北新幹線の高架下までの公道との併用軌道を相当な横Gを乗客に課しながら
   下っていくわずか一、二分の下り坂がもたらす原初の快楽を満喫できるのは、
   あの由緒正しい花屋敷のジェットコースターを除いてほかにない。
   ・・・・・・

都営荒川線沿いに住む「わたし」の目から見た、「わたし」の周りの人々を中心に描いた本。
東京のちょっと懐かしい下町。
わたしも都営荒川線に乗ってみたくなりました。どこに行くあてがあるわけでもないけど・・・そうね、いつか王子駅で荒川線に乗る。そして、鮫洲まで。

物語があるような、ないような、この町に住む人々の日常、主人公が常連となる居酒屋の名の由来ともなった競馬の話、地味だけれど「わたし」が愛した堅実な文学者たちについての考察・・・などなど、とりとめのないことがらが、でも一応長編らしく時間軸にそって描かれています。
(この作品は、「書斎の競馬」という雑誌に連載されたものに加筆したものだそう。・・・だから、こんなに競馬の話題が多いのか〜^^)

これはさらりとした水彩画のような作品だと思いました。
深く塗り重ねることはなく、水をたっぷり含んだ筆でさっと掃いたような画面、でも、一歩下がって見れば、人々の暮らす風景や心模様、その矜持が、遠近感や色の濃淡を伴って細やかに鮮やかにうかびあがってくるのです。

印章彫りの正吉さん、居酒屋「かおり」の女将さん、パラフィン紙のカバーを職人技でかける古本屋の筧さん、町工場を経営する大家の米倉さんと娘の咲ちゃん、「旋盤はニ刃より芳し」などという駄洒落みたいな警句を壁に掲げる旋盤工の林さん・・・
地味で味わい深い人々が、鮮やかな色合いで、画面に現れてくるようでした。

大きな盛り上がりがあるわけでもなく、登場人物に何か変わったことがあったとしても深く追求することもなく、昨日も一昨日も今日も、明日も、こんなふうにこつこつと地道に暮らしていくんだなあと思う、それがとても深い味わいになっています。
淡々と描かれる何のこともない平板な日常だけど、読むほどに、この文章は、読者のなかで不思議な醗酵を遂げて、いつの間にか満たされていく、そんな感じ。

それにしても、ひとつ事を生涯にわたって追求してきた職人さんの言葉って、なんて味わい深いんだろう。
林さんも、筧さんも、米倉さんも、・・・みんなみんな奥深い物語を持っていそう。
そして、その一端が彼らの口をついて出る。だからといって、それがどうしたってわけでもなくて。これも物語の中の一つの風景にすぎないのです。
特に印鑑彫り、昇り龍の正吉さんの言葉は心に残ります。

  >変わらないでいたことが結果としてえらく前向きだったと
   あとからわかってくるような暮らしを送るのが難しいんでな。