わたしが妹だったとき/こども

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わたしが妹だったとき/こども
佐野洋子
福武文庫
★★★★


「十一才のままの兄のために」と副題のついた「わたしが妹だったとき」は創作童話、一方「こども」は兄とわたしの子供時代のことを書いたエッセイ。
一方は創作で、一方はほんとうにあったことを綴った文章です。だけど、そこに篭る思い出やその思い出にひそむ感情は、どちらもほんとうのことで、すべてがとてもリアル。

自分のなかをさがしてみればどの場面のどの気持ちにも、共感できることばかりでした。
そういうわけのわからなさ、野趣と呼ぶにはあまりに生々しく赤面するほどに欲望と目先の利益達成のための浅知恵に彩られた、したたかでたくましい日々。
自分の思いをきちんと整理して口にすることができず強情に黙り込むか泣くしかなかった…それでも決して本当の気持ちは伝わらなかった苦々しい日々。
みんなみんな、さまざまな切れ切れのこどもの日の場面とともに思い出されることばかり。
ただひとつ、お兄さんの死をのぞいて――

体の弱かったお兄さん。いつも一緒に遊んでいたお兄さん。けんかをしたり、こすっからいことを共謀したり、一緒に泣いたり、ごまかしたり、
大人からみたらぞっとするほど危険なことなのに、この兄と無心にしたことには何故か甘美な匂いがある。
一緒に手をつないで眠り、同じ夢を見たりした。
でも、その甘美な日々には、やはり、死によって分かたれる陰りがいつもにじんでいるように見えるのでした。
「こども」のなかにははっきりとした事実として。
「わたしが妹だったとき」には象徴的に・・・たとえば、夜の観覧車。たとえば、いつのまにか裸になっている二人の姿。
甘美でさびしくて、少しだけ苦い。そんな佐野さんの子供の日々。

「文庫あとがき」のなかには、もっとはっきりと書かれています。
お兄さんの死んだ日のこと。
  >母が身をよじって泣いている側で、
   わたしはごろごろと転がって「子をうしなった母」の嘆きをただ見ていた。
   そしてのろのろと立ち上がって、本当にすることがなかった。
   そしてのろのとと、妙に風通しのよくなったすうすうする体をもてあまして、
   隣の女の子のところに遊びに行った。
   わたしは、母の悲しみの重大事の側で、私のどう表していいかわからないものは、
   無視されていることを受け入れた。
これが佐野さんの、まるで一心同体のように育った兄との別れでした。これが子供の佐野さんの言葉にならない、どうしようもない感情のおさめかたでした。
これが、大人の決して知ることのなかった子供の世界でした。
そして、それでいいのだと思うのです。
大人はこどもに中途半端にわかった顔を向けるくらいなら無視したほうがよい時もあるのだと、遠い昔子供だった私は思うのです・・・