偶然の祝福

Guzen
偶然の祝福
小川洋子
角川文庫
★★★★


この文章に、静かにゆすられているような幸せを感じて、ずっと読んでいたいと思う。
一行も飛ばさずに、その一行一行こそ大切に舌の上でころがすように味わいながら、ずっと読んでいたいと思う。
小川洋子さんの文章はそんな感じです。

この本は、小説家の「私」を語り手にした連作短編が7つ。
どの物語にも、「喪失」がある。
嘗てはそこにあったもの、でも今はないもの、

死んでしまった弟、忘れ去られた物語、実際はないのに滑り込んできた架空の記憶、やさしい思い出・・・
飛行機の嘔吐袋を集める趣味や、切り取られた水の溜まったできものまで、グロテスクでありながら、なぜか透明に美しい「喪失」
人々もまた、正気を失い、ときに狂気や妄想をはらみながら、なぜか心優しく美しい。

たくさんの喪失。
思い出せば、失って、もう戻らないあれこれがなんてかけがえなく愛しいことか。
そして、もはやそこにないことが切ない。
・・・こんなふうに書いてしまえば、後ろ向きでやるせないばかりなのだけれど、
この本のなかの「喪失」は再生を促す。
無駄に過去を振り返るのではなくて、どっぷりと「喪失」に浸ることから、また、その「喪失」をじっくりと体の中にしみこませることから、次の生が生まれてくるように感じるのです。
この本の配置もそうなってる(笑) 一話「失踪者たちの王国」→最終話「蘇生」

「キリコさんの失敗」のキリコさんの万年筆「さあ、これで書くのよ」という言葉、「時計工場」で長編小説を書くことを時計工場にいることに喩える場面、作家の楽屋ウラの声を聞いたような気がしました。
キリコさんについては・・・ほんとに短い期間であれ、自分の子供時代にこういう人が傍らにいてくれたことはなんて幸せなことだろう。

「失踪者たちの王国」の伯母、「盗作」の“弟”を見舞う女性、「エーデルワイス」の男。そして「蘇生」のアナスタシア・・・どの人々も印象的。そして、たぶん小川洋子さんの作品のなかでだけ独特の輝きを見せる人々。
嘔吐袋、木のリコーダー、万年筆、首筋の痣、手術で体から切除された余計なもの・・・こうしたものもまた、小川洋子さんの作品のなかだけで輝く。
それは一瞬の輝き。そして忘れられていく。忘れられていくものの美しさ、忘れられることで、忘れられないものを輝かせ前に出そうとする奥ゆかしさ。この奥ゆかしさがわたしは好きだ。