「ミーナの行進」のあとすぐなので、どうしても比較して、物足りないような気持ちになるのは仕方がないことなのだろう。
この本を読みながら感じたのは、今まで読んだ(大変に)数少ない小川洋子さんの世界が、この本のなかでもリフレインされているのだなあ、ということ。そして小川洋子さんの世界がすこーし理解できてきたように思えること。
たとえば、小川洋子さんは、「逆」を語ります。
失われたもののことを語りながら今あるもののことを語る、
あるいは、失くしてしまったもののことを語りながら、昔はあったことを語る。
もっと言えば「死」を語りながら、「生」を語ろうとしている。
この本のタイトルは「ブラフマンの埋葬」
タイトルにこの本の結末が書かれている。「死」について書かれた本なのだ、と意識する。必ず死ぬことを絶えず意識させられながら生の日々を読み続ける。
「僕」とブラフマンの幸福な日々が幸せであればあるほど、残酷な結末を想い、その風景はとりわけて、美しく、愛らしく、かけがえのない時間になっていく。
結末の思いもよらない悲しみと取り返しのつかない愚かな後悔。その代償として、思い出はあまりにも美しい。故に残酷だ。
また、碑文彫刻師、レース編み作家、という職業名が、短編集「海」収録の「ガイド」のなかの「題名屋」「シャツ屋」という職業と重なる。
それから、手の表情についてもこの人の本に良く出てくる(「ミーナの行進」の本を扱う米田さんの手の表情など)
こういう不思議なディテールが好き。
さまざまなものの定義のしかたにも惹かれる。
たとえば、机とは、何をするのに使うものか、「僕」はブラフマンに教える。その言葉が好き。
>それは机だ。齧るものじゃない。物には全部役割があるんだ。
いいか。
それは、本を読んだり、手紙を書いたり、
物思いに耽ったりするときのためにここに置いてあるんだ。
(中略)
爪を切ったり、プラモデルを作ったり、
昔の写真を眺めたり、誰かのことを思い出したり、涙をながしたりするために置いてあるんだ。
そうか、机って、そういうものなんだね。「僕」の机は幸せだなあ、としみじみと思ったり。
また、身寄りのない年寄りのところから仕入れた用のない古い写真を売るアルバム屋という不思議な職業。
誰一人今は生き残っている人のいない、古い家族写真を見て、安らかな気持ちになる静かで寂しいくだりも好きでした。
>彼らが皆いなくなってしまった、という想像は、思いのほか僕を悲しくさせなかった。
むしろ安らかな気持ちにさせた。
家族が一人ずつ旅立ってゆく。残された者は、死者となった者の姿を、写真の中で慈しむ。
そこでは死者と生者の区別もない。
(中略)
まるでそういう家族など、最初からどこにもいなかったのだというように、
あとにはただ無言の写真だけが残される。
……その静けさが、僕に安らかさを与える。
「ミーナの行進」のなかで、アウシュビッツの写真集の感想をとっくりさんに話す朋子の言葉がここでもリフレインして聞こえてくる。
>だから、悲しいんです。
アウシュビッツの写真集に出てきた人たちには、何も残っていなかったんです。
尊さどころか、名前も、髪の毛も、泣いてくれる人さえも
小川洋子さんの作品のなかにときどき現れるホロコーストのエピソード、小川洋子さんは、この「死」を通してどんな生を見ようとしているのだろうと考えていました。