ミーナの行進

Mina
ミーナの行進
小川洋子
中央公論社
★★★★★


あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
2008年、わたしの読書初めは「ミーナの行進」。おかげさまでとっても幸せな読書初めになりました。

コビトカバに乗って小学校に通う少女。
現実離れした設定にびっくりですが、実際は、大きな事件がおこるわけではありませんし、舞台のほぼすべてが芦屋の洋館のなか。
些細な日常がゆったりと描かれるその行間には、しかし、さまざまな物語の気配がひそんでいます。とても深くて広い物語の気配がたくさんひそんでいるのです。良い物語も悪い物語も。

些細な日常の出来事の連続であるのに、こんなにもドキドキして読み、こんなにも切なく感じ、美しさにため息をつく、この物語の魅力を文章にして伝えることはあまりにも難しいのです。
現実には閉ざされた狭い世界でありながら、実は見えない扉が、広い世界に開かれていたのです。

この豪華で摩訶不思議な明るさを持った洋館に住む家族は、(その姿も、環境も)ため息が出るほど美しいけど、それぞれが心に「闇」を抱えて、「闇」と折り合いをつけてなんとかやっていこうとしているように思えます。
そして、家族はそれぞれに互いの「闇」の深さを知り、互いによりそい、支えあい、だから、こんなにやさしく儚げなのかもしれません。
そうして、彼らの「家」は完璧に調和するようにさえ思えます。

ミーナ。
体が弱く、入退院を繰り返し、車にも乗れない、ひとりで外を歩くこともない、その特異な境遇と生来の本好きとが合わさって、あれほどの深い洞察力と、なんとも深みのある魅力的な性格を形作っているのでしょうか。
ミーナのことが書かれた箇所をよむたびに、バーバラ・クーニーの絵本「エミリー」を思い出します。(詩人エミリー・ディキンソンは長年自宅に篭っていたにもかかわらず、心はだれよりも遠く旅していたし、彼女自身は大きなひとつの「完成」でした。)
ミーナが、バーバラ・クーニーの描くエミリー・ディキンソンに重なります。
ただ、この儚い気配と、独特の深みに、わたしはずっと、ミーナは現在はこの世にいないのではないか、と心配して読んでいたのですが・・・

そして、伯母さん。砂漠の中から一粒の宝石を捜すように誤植を捜す、その宝石は他ならぬ彼女自身。
パンフレットの中の誤植「ヌレッシー」はすごい。「ス」が良く似た文字「ヌ」に換わるだけでここまで気味悪くなれるのか。この「ヌレッシー」という言葉がリンクするものの妙。
隠された世界をちらりと見せて、でもそこまで。見せすぎることはしない。その加減がなんともよいのです。そして、こういう加減は、物語のそこかしこに散らばっているのです。

それから少女の淡い恋。息をとめて、そーっとそーっと見守りたい、微笑ましくて、まどろっこしくて、くすぐったくて、愚かしい、恥ずかしい、あの小さな微風のような恋心・・・だれかをこんなふうに思ったのはいったいいつのことだったでしょうか。

文章の美しさ。
あまりに美しく、一文一文に立ち止まり、良く味わいたくなるあの文章。
その美しい文章が写す光景の魅力も素晴らしいのです。とくにこの家の本や本棚について語るところが好き。
ミーナの読みさしの本を扱う米田さんの手や、雑誌やパンフレットから専門書に至るまでの雑多なものが読み手である家族を写すような魅力的な本箱の描写など、まさにためいき。

そして、時代からも世界からも隔離されたようなあの洋館の独特なたたずまい。昔動物園だったという庭はどのくらい広いのか見当もつきません。
南仏風の外観とドイツ風の内装。
伯母さんの喫煙室
そして何よりも不思議な光線浴室。ミーナのベッドの下の箱たち。ここで過ごす二人の少女の時間は、どの時代とも隔絶して閉ざされた二人だけの世界。でも、ここでもやはり、大きく開かれた広くて深い芳醇を感じます。二人の世界はあまりに大きい・・・

物語は思い出のなか。
1972年、朋子の中学一年生のときの世の中の動きのなつかしさ。
ミュンヘンへの道」、全日本チームの懐かしい名前。川端康成がなくなったのもあのころだったのか。降らなかったジャコビニ流星群のことは覚えていませんが、あのころあったのは「タケダのプラッシー」・・・あの頃の自分の居場所とともにみな懐かしく思い出されます。

  >しかし、現実が失われているからこそ、
   私の思い出はもはや、なにものにも損なわれることがない。
   心の中では、伯父さんの家はまだそこにあり、
   家族たちは、死んだ者も老いた者も、皆昔のままの姿で暮らしている。
   繰り返し思い出すたび、彼らの声はなお一層いきいきとし、笑顔は温もりを帯びる。

もはや入れ物さえも存在しないからこそ、その思い出が鮮明である、というこの文章がわたしはとても好きです。
そして、だから、この物語に存在しない私も12歳にもどり、この洋館の部屋部屋を自由にめぐったり、光線浴室のランプの明かりのもと、ミーナと朋子のあいだに頬杖ついて話を聞いていたような架空の思い出を忍び込ませることもできるのです。