金魚のお使い

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金魚のお使い
与謝野晶子
和泉書院
★★★


1907年〈明治40)〜1914年〈大正3)。与謝野晶子の童話集。21篇の短いお話が収められています。
そのほとんどは少女向けの雑誌「少女の友」に掲載されました。
その後、「おとぎばなし少年少女」という一冊にまとめられて出版されています。そのはしがきのなかで、
与謝野晶子は、
自分の子供たちが大きくなるにしたがって、何か御伽噺がいるようになってきたこと、
御伽噺の本の中には、あだ討ちとか、泥棒を題材にしたものがあり、言葉遣いが野卑であったり、教訓がかったことが露骨に書かれていることなどから、
  >〈お伽噺の本は)子供をのんびりと清く素直に育てよう、闊く大きく育てようと
   考えている私の心持ちに合わないものが多いところから、
   近年はできるだけ自分でお伽噺を作って話して聞かせる事に致しております

そして、これは与謝野晶子が子供たちに語った物語から生まれた本でした。
編者である古澤夕起子さんの解説によれば、
与謝野晶子さんの長男光さんは、
  >毎晩のように晶子が聞かせてくれたおはなしはどれも楽しい結末で、
   子どもがせがむとおりにいくらでもストーリーを変えてくれた
と回想しています。

私の知っている与謝野晶子は、昔の学校の教科書のなかにありました。国語の教科書に歌が載る歌人であり、社会科資料集の中では「君死に給ふことなかれ」の人でした。
でも、この本を書いた与謝野晶子は、11人の子を持つ普通の、とても素敵なおかあさんでした。
子供たちの明るく健やかな成長を願いながら、お話を語る、その姿勢は、100年のときを隔てているとは思えないほどに、今の母たちと共通の思いでした。お話を語る与謝野晶子さんの姿勢に共感し、とても身近な人に感じました。

お話は、子供が主人公であっても、虫や土瓶が主人公であっても、どれもみな、小さな子供たちの身の回りから出たもの、
おかあさんが子供の毎日の生活や家の中、庭先などに目をやりながら、お話したんだろうな、という感じのものばかりでした。
「お話楽しい」というより、こんなお話をしてくれるおかあさん、いいなあ、という感じかな。
お話を聞く子供たちの顔が浮かんでくるんですよ。
ちょっとくすぐったそうな顔で微笑みながら、
ああ、これはぼくのお話だ、お姉さんのお話だ、
あの火鉢の上の土瓶のことね、時計ってこの部屋のあれでしょ、
と、子供同士、つつきあいながら聞いていたら、うれしいよね。


それから、100年後の読者にとっては、レトロな文章やこども文化に感じるカルチャーショックを存分に楽しませてもらいました。
  >お花さんは手帳を持って、叔父さんがスケッチをなさるときのようなふうをして、
   お庭をずうっとお勝手のほうへまわりました。
という文章の丁寧な言い回し、今こんな本ありませんから、新鮮。

また、お話の中で、小学生が小学生に向けて書いた手紙の書き出しは、
  >わたしは嬉しくて嬉しくてしかたがございません。もう二十日しますと、
   伯父様や、あなたや、弟の太郎さん達が、おこしくださると思うと、夜分もよく寝られません。
わが子に見せてやりたいよ。メールで「今日のおかず何?」とぶっきらぼうに打ってくるお人に。

山遊びに行く子供たちが歌を歌いながら行こうという話になり、何の歌を歌うかといえば
君が代がいいでしょう。」
「ぼくは“せいせい”を歌います。」
「キミガアヨオハ。」♪
「生々薬館の製剤は。」♪
山歩きしながら「君が代」だって。ほのぼのとおかしいのですが、“せいせい”ってなんだろ。コマーシャルソングみたいだが♪ 少なくても君が代ふうの歌じゃないよね。(いっしょに歌うのか、普通♪)
1909年って、伊藤博文ハルビンで暗殺された年。翌年には韓国併合。〈年表で調べてきた)
でも、こんなふうにうたっていたのかな、子供たちは「君が代」も他のどんな歌も、無邪気にほのぼのと。


この本を読もうと思ったきっかけは、架空社の絵本「きんぎょのおつかい」〈高部晴市・絵)がすっごくおもしろかったから。突っ込みどころ満載で。〈感想はコチラ
読んでよかったです。
この本のころの与謝野晶子さんの暮らしは、決して明るいものではなかったそうですが、子供に語るお話はひたすらに明るく、ユーモアに満ちていました。