トリエステの坂道

Torie_2
トリエステの坂道
須田敦子
白水ブックス
★★★★


須賀さんがイタリア国境の町トリエステを訪問したときのことを描いた表題作「トリエステの坂道」からこのエッセイ集は始まる。
なぜトリエステなのか。
それは詩人ウンベルト・サバゆかりの地であったから。
そして、サバは、夫が最も愛した詩人であり、トリエステはいつか夫とともに訪れるはずの町だった。
須賀さんの夫ペッピーノさん。
4年の結婚生活の後、あっというまに亡くなった人。

トリエステを訪れるところから始まり、12のエッセイは、すべてイタリア、そして、夫と家族(親と兄弟)、親戚たちのことに尽きる。

夫の家族を語るとき、須賀さんは決して美化しない。
ありのままに語られる姑も義弟も、ちょっと困ったところやわずらわしいところ、などを持っているけれど、情けもあるし、互いに打ち明けあう悩みもある。だから、合わないところも「ま、いいか」と受け止めて流せるのかも。
合わないところ。
そう、たとえば、しゅうとめに素直になれない気持ちを、
テーブルの上のひとびんのお気に入りのお酒に歓声を上げた瞬間、そのなかに(コクを出すために)癖の強い匂いを放つハーブが入っているのをみつけたときの気持ちに重ねて書いていたり、
さりげない毒まで表現が独特でさらっときれいで上品で、かすかなかすかなユーモアがあって。
で、「ああ、それわかるなあ」と感じて、それがまたこんなにきれいに言われるから、ふっと気持ちが軽くなっていきます。

夫の家族は鉄道員の家庭としては底辺の生活で、貧困のうちに四人兄弟のうち二人を結核で失い、夫自身が親戚中ただひとり苦学して大学まで出たのだった。
須賀敦子さんという人に対して私は、なんとなく裕福でインテリの良家の出という印象をもっていたので、ご主人もまた、同じような階層の人なのだろうと思っていたので、正直ちょっと驚いた。・・・嫌らしい言い方ですね。
でも、今から60年以上も前、双方にとまどいはなかったのだろうか。
愛する人の家族=自分の家族として須賀さんはあたりまえのように夫の家族も親戚も受け入れている。また、夫の家族にも須賀さんは受け入れられている。
環境も育ちも飛び越えて、
須賀さんとこの家族のあいだには信頼と共感があるのです。
それは夫の死後もずっと続くのです。
それは何なのだろう。
互いにありのままに受け入れようとしたからではなかっただろうか。しかも、受け入れつつ独立して甘えない。
そして、それができたのは、互いがとてもさびしく、しかも誇り高い存在であったからではないでしょうか。
特に姑と須賀さんの関係なのですが(ご主人はすでにいないので)、
ともに孤独を知っていて、だから寄り添う。でも決してその孤独が解消されるとは思っていない、解消したいとも思っていない。自分の孤独感をしっかりと抱きつつ生きる。それが誇り。互いに相手がその誇りを持っていることを知っていた。
そんな生き方が似ているようにも思うのです。そんな共感・・・

ただ、「ありのままに受け入れる」と言っても須賀さんの「ありのまま」はとてもきれいです。この文章!

須賀さんの文章はきれい。
しんと静かな感じ。
「イタリア」という言葉からイメージされる明るく軽やかな南欧のイメージはここにはない。
静かに鎮まって、霧に煙って少しぼんやりとしている。一塊の文章ごとに余韻のようなものがある。
冗談までが、霧の中からくぐもって静かに話されるように感じる。
私が、この本を好きだな、と思うのは、内容がどうとか、というよりもまずこの雰囲気だなあ、と思う。

印象に残るのは「セレネッラの咲く頃」
義母の、ハンカチを広げたような(この表現も好きです、わたしなら「猫の額のような」というだろうけど)小さな家庭菜園に咲く小さな紫の花。セレネッラというのは日本の紫苑のことなのだそうです。
当時須賀さんがイタリア語に翻訳していたという石川淳作「紫苑物語」をぜひ読んでみたいと思いました。