Umi

小川洋子 著
新潮社
★★★★


なんという愛しい本だろう、この本は。
7つの短編を収めたこの本、大好きな一冊になりました。

静かで、乳白色で透明で、少し冷たい、美しい端正な文章。
独特な、不思議な空気が流れる7つの物語は、それぞれにテイストがちがいます。
小さな狂気、エロティシズム、冷酷さ、皮肉、そして、みょうにシニカルなユーモア・・・
だけど、読み終えてみれば、すべての作品が静かな優しさに包まれているのを感じるのです。
この穏やかで不思議な優しい世界・・・何かがゆっくりと満ちてくるような静かな余韻。
何度も何度も味わいたいような大切な本です。

「海」
婚約者の実家に泊まった青年は、その夜、婚約者の弟と出会う。
この家のあまりに隙なく整った外観と、どこか壊れたような不思議な気配のアンバランスな感じ。
そして、弟が演奏するという不思議な楽器「鳴鱗琴」
海の風が届かないと鳴らないというこの楽器の不思議な音色が聞こえたような・・・
この家族の不気味さ、弟との一夜の奇妙さが際立つほどにこの音色が深く澄んで聞こえるような・・・
  >海の風の重さだけだった
のかもしれないけど。


「風薫るウィーンの旅六日間」
・・・ああ、これはまたお気の毒な事態に・・・しかし、次から次に、このゆったりとしたテンポで「すれちがい」とか「かんちがい」とかが現れる。となると・・・
このゆっくりのユーモアは何? えーっと笑ってもいいのかな・・・
だけど、なんとさびしくて、優しい人たちだろうね。


「バタフライ和文タイプ事務所」
ワープロさえ最早古い現代に、なつかしい「和文タイプ」というのがいい。
倉庫にいけば、無い文字はない、そして、その文字のすべてを把握して、一つ一つの文字をいつくしむ鉛色の手の管理人。
この漂う独特のエロティシズム。
際どい場面はひとつもないのに、そして、静かで上等な文章なのに・・・はあ、どきどきしました。


「銀色のかぎ針」
短編というよりはショートショート
とても短い物語ですが、今は亡き祖母への思慕がしみてくるのです。静かに。優しく。


「缶入りドロップ」
子供を持ったことがない、泣かれると一番困ってしまう幼稚園バスのおじちゃん。
5つのドロップの缶にはきっと彼のとまどいとやさしさが・・・
根気よく缶のドロップを詰め替える姿が目に浮かんでくるのです。
それをガラガラ言わせながら今日も走るおじちゃん、なんだか「ありがとう」と言いたくなってしまう。その生真面目な不器用さに。


「ひよこバス」
青年と6歳の少女の静かな関係がいい。
少しずつ詰めていく微妙な距離感がいい。
彼らをつなぐ「殻」たちがいい。
そして、「ひよこ」が、「殻」の中身なのがいい。
ものを言わないと、言葉を発しないと、こんなにも伝わるものなのでしょうか。
だけど、通り過ぎる「ひよこバス」
このバスを待つ、少女が青年にゆっくりと心を開いていくのを待つ。待つことのもどかしさ、尊さ。
鮮やかなひよこたちは、たくさんの言葉の洪水のよう。
最後に広がる色の洪水のなかにこぼれたものは・・・感動より、むしろ可笑しい、と思ってしまった。可笑しくてうれしくて、ちょっと悲しいような・・・泣き笑いの気持ち。この気持ち、心地よいのです。


「ガイド」
これが一番好き。
母と少年の気持ちの通い合いが素晴らしい。
なんともいえない気持ちでちょっと泣きたくなってしまう。
それも直接見つめあうのではなくて、さまざまな小物(旗、シャツなど)や人(題名屋の老人やシャツ屋のおばさん)などを介して・・・これがまた絶妙なのです。
たぶん、この絶妙さは、この人のこの端正でそこはかとない不思議なユーモアとゆとりのある文章だからこそ!と思うのです。
だいたい題名屋、シャツ屋、この奇妙な職業はなんでしょう。これを真面目に語るのです。真面目に語るのが良いのです。
そうそう、印象に残るのは、(ちょっとお話がそれるけど)少年が老人に「今日のぼくの一日に名前をつけてほしいんです」と頼むところ。
題名屋、いいねえ・・・
最後にこのお話を読めてよかった。大切な大切なお話になりました。