『誠実な詐欺師 』  トーべ・ヤンソン 

硬質な文体。静かに冷たくて清潔で。こういう文章を読むのは気持ちがいい。
冬のフィンランドの森の中。捨ててしまいたいものを湖の氷の上に置いてくる、という場面があった。こうしておくと、春になり氷が解けると、すべてが湖の底に沈むのだと。
この氷の上にいるような気持ちで、わたしはこの本を読み終えた。
大人のためのトーべ・ヤンソン。これ、極上品です。この本の感想をどう書いたらいいのかな。
少し(?)ネタばれしてます。
何処まで書くことが許されて、何処でとめることが適当なのか、わからなくなっちゃった。そんな本でした。

兎屋敷に住む老画家アンナ・アエメリンは、金銭的にも恵まれ、穏やかで、曖昧さを好み、ある意味お人よしなルーズさをもっている。
一方、冷静で、数字に強く数字のように決して嘘をつかないカトリ・クリングは少し知恵遅れの弟と暮らしている。
カトリの夢はささやかだ。弟に彼が設計する本物のボートをもたせてやりたい。それだけ。
そのためにアンナに近づく。アンナと共同生活をし、アンナの財産を管理し、その資産を正当なやり方で増やす。そして、カトリが手にしたものもまた正当な分け前であり、アンナ自身もそれを認めている。
どこに「詐欺」という言葉があてはまるだろう。

ところが。
アンナの精神世界が徐々に破壊されていくのだ。曖昧さを排除されることにより今まで見ようとしなかったものに気がつく。人々の善意に疑いを持つことによって、彼女のすべてが変わってしまう。
そして、カトリ。何もかも計算どおり、うまくいったはずの彼女もまたおかしくなってくる。
この二人の女の一見静かな、ぴんと張った恐ろしいまでの緊張感がすごい。そして、互いに奪われあいながら、離れることができなくなっていく。
ピーンと張り詰めた北欧の冬景色のなか、まさに氷の上の家具。しかも、この張り詰めた空気は、誇張されることなく、冷静にひたすら感情を押し殺した文章で着々と描かれていく。

一人は、社会的に成功し名声も人望もある画家。
もう一人は、数字のように真っ正直で決して嘘をつかない。人々に信頼されながらも軽蔑される、それを知りながら、計算機のような生き方をする女。
まったく相反する二人に見える。
アンナは作者自身を投影している、とカバー裏の文章には書いてある。だけど、それではカトリは?
カトリもアンナもともに作者自身という気がする。
アンナは、森の土壌をリアリスティックに描く画家。なのにそれを台無しにする兎の存在。これを消すことができない。
風景を台無しにする兎! 花柄の兎でございますよ。アンナの本質を隠し、ある人にはこちらがアンナ自身だと錯覚させる兎の存在。この兎に関する記述が現れるたびに妙に妖しい気分になる。アンナが落ち着かない。私も落ち着かなくなる。アンナ自身たぶんこの兎を必要と思いつつ実は憎んでいた感じがする。
そして、与えられていた清潔な秩序を奪われ、混乱し、野生に戻り森に走る犬! この犬が、計画がうまくいっているのにもかかわらず思い通りに機能していないことに苛立ち混乱していくカトリにだぶる。
カトリが犬に襲われるシーンは圧巻だった。

誠実な詐欺師。なんと見事なタイトル。そして、この静かでダイナミックな逆転劇にため息。

この物語の中で、唯一確かなのはカトリの弟マッツ。「少し足りない」といわれる彼が、実は決して揺るがない、強い存在であることに気がつく。二人の女の張り詰めた緊張感のなか、彼の揺るがぬ世界にほっとさせられた。
また、村の人々、リリィエベリやニィゴードの女主人に感じる温かみ。
なんともいえない魅力的な登場人物たちもとてもよい。

北欧の冬。破壊と再構築(の気配)の物語。この冷たさは気持ちがよくて決して暗くはない。清潔な明るさを感じる、不思議な物語。何度も読み返すことになるだろう。