『ホエール・トーク  クリス・クラッチャー 

表向きは法的にも人種差別は認めない社会の中で、実際「日系人は全員、一人ずつ黒んぼのガキを抱かせて日本に強制的に送り返せ」などということを考えている人々が権力を持ちハバをきかせている環境で暮らすってどんなものだろう。
「人生はいつもこんなものだった。やるだけやっても、手に入るのはがらくた同然のものばっかりだったんだ」と感じながら生きることはどんなものだろう。

主人公のT.Jは白人と黒人と日系人の混血。ドラッグにおぼれて彼を育てることを放棄した母親に代わって、温かく賢い白人の両親のもとで養育され、現在は高校の最高学年。
これまで、様々な場所であからさまな人種差別を受けながら成長してきた。素晴らしい頭脳と抜群の運動神経に恵まれているものの、上から押さえつけられることや体育会系の縛りを嫌って、どこの運動部にも所属していない。
それがひょんなことから、水泳チームを組織してある目的のために力を尽くすことになる。チームは一風変わったはみ出し物ばかり、水泳の経験なんてT.J以外はまったくの初心者、という連中である。

 

メッセージがしっかりと伝わってきます。それもかなり熱く語っています。それなのに、これがうるさくないのです。うざくもないのです。

作者はファミリーセラピスト、児童保護活動の専門家、という横顔ももっているそうです。
主人公はじめ若者たち、その周りの大人たち。とにかく際立って個性的な人物ばかりなのですが、過去も未来も現在もひっくるめて、その人の人生がちゃんと見えてくるのです。

根深い人種差別。陰湿にはびこる児童虐待
どうにもならない生きがたい現実。ふつふつと怒りが燃え上がってきても、大きな力の前では簡単にひねりつぶされてしまう。
簡単にさわやかに解決なんてできるわけないのです。
そして、これはT.Jだけの問題ではない。如何ともしがたい現実、納得できない現実に歯軋りしながら耐えること。間違った人間が財力や権力をかさに着てのし歩くのをただ眺めるしかないこと。こういうことってどこにでもある。

こんな風にいうと、とても重い話のようですが、実は、気持ちのよい青春物語です。
「動物村の水泳チーム」という言葉がぴったりのメンバー(これがまた、ひとりひとり噛めば噛むほど味がある!)が、すこしずつさまになってくる、少しずつ絆が深まってくる。誰が認めようが認めまいが、それはもう最高のチームに変わっていくさまは、胸が熱くなります。

T.Jをはじめとして、人種差別や児童虐待の後遺症に苦しむものたち、彼らの苦しみは一生彼らにつきまとうはずです。
事件を解決するというよりも、ここに登場したT.Jとその仲間たちはたぶん、どんな未来が待っていようとも、なんとか自分の足で歩いていけるはず、と感じさせてくれる終わり方が好きです。
彼らは、自分の未来を切り開き、きっとどこかに自分のポジションを固めていくにちがいない、と感じさせてくれるまでに成長する。こんな風に感じさせてくれたことがうれしいのです。

いろいろなことがあった。テンポよく進む文章、シモネタ(?)満載のユーモアのある文章に笑いながらも、T.Jの怒りに、父さんの悲しみに、母さんの説得力ある言葉に、そして、様々なつらい体験の上に成長してきた仲間たちの過去に、いちいち同調しながらラストまで来ました。

悲しい、とか、うれしい、とか、やるせない、とか、さわやかだとか、そんな言葉にさえならない感情があふれ出してきた。

  >「ねえ、母さん。ときどき思うんだけど、
   こういうものって、どこに置けばいいんだろう。」
   「そうね、どこにも置けないものはしばらくはそのままにしておけば?」

そうか、どこにも置けないものはしばらくはそのままにしていおてもいいんだね。そのままにしておいたほうがいいんだよね。