『素数の音楽』 マーカス・デュ・ソートイ 

  >この世には、人知でうかがい知れない神秘が存在する。

    秩序に満ちた数の世界のなかで、一見秩序も規則もなく気まぐれな暴れ馬のように傍若無人に振舞い続ける素数。この素数に取り付かれた数多くの数学者たち。素数に隠された規則性を彼らは探し求める。
そして、リーマンによって見出された「リーマン予想」それは、一見無秩序に見える素数のならびに隠された壮大な秩序を見出したもの。しかし、このリーマン予想は、世紀をまたいでなお証明されていない。

まるで、天上高く鳴り響く壮大な音楽のように「素数」が奏でる音楽を聴こうとする天才的な数学者たち。オイラー、コーシー、ガウスフーリエ、そしてリーマン、ラマヌジャン…彼らのエピソードに触れるにつけ、天才ってこういう人たちだったんだ、と圧倒されてしまいます。
それは単に頭がいい、とかセンスがあるとかではなくて、数学をするために生まれてきたような人たち。
彼らは、生涯を数学という世界での大冒険に賭けた、といえるかもしれません。

正直、この本で取り上げられた数式や理論などの意味は半分も、いやほとんど理解できませんでした。けれども、数学者たちの素数への厚い思いは伝わってくるのです。
これほどまでに魅せられる世界を持っていること、そして、この至上の「音楽」を聴き、理解できる才能を持った人々が本当にうらやましいと思いました。
大河物語を読むようなロマン。

音楽と数学を結びつける、ということは単なる比喩ではなくて、その密接で不思議な関係は紀元前にすでにピタゴラスによって発見されていたというから驚く。
ピタゴラスは、水を入れた壷をたたくことで、分数列の裏にある音楽的調和を明らかにしたという。

数学と音楽に共通する不思議な関係を美しいと思いました。この本を読んでも数学のことはさっぱりわからない、それでも美しいと思います。
数学と音楽が握手しただけではなく、筆者ソートイは、この本を著すことにより、数学と文学をも握手させているのでした。
数学を文学の側から眺めて感動する・・・不思議で美しい体験。

  >科学者が自然を研究するのは、自然が有益だからではない。
   喜びをもたらしてくれるから研究するのであり、
   なぜ喜びをもたらすかというと、自然が美しいからだ。
   自然が美しくなければ、そんなものは知るに値せず、
   自然が知るに値しないものだとすれば、
   人生も生きるに値しないものなのだ。

1、2、3、5、7、11、13、17、19、…… まるで砂漠にばらばらに数字を散らしたような素数たち。ここにどんな規則性があるというのか。わたしにはまるで見当がつかない。
数字たちは互いに無視しあって勝手気ままにふるまっているようにしか見えないのに。

  >素数は音楽に分解できる、
   ということを数学的に表現するとリーマン予想になる。
   この数学の定理を詩的に述べると、
   素数はその中に音楽をもっている、ということになる。
   但し、その音楽は、
   近代概念では捉えきれないきわめてポストモダンなものなのである。
                      ~マイケル・ベイリー卿~

  >数学者たちは、何年にもわたって、素数の音に耳を傾けてきた。
   しかし、聞き取れたのは無秩序な雑音だけだった。
   まるで数学という譜面にでたらめに置かれた音符のようで、
   素数にはこれといった調べがないように思われた。
   ところが、リーマンは、この神秘的な音楽を聴き取る新しい耳をみつけた。
   リーマンがゼータ関数のゼロ点から作り出した波のおかげで、
   今まで隠れていた調和的な構造が見えてきたのだ。

  >自然は素数のなかに、
   数学のオーケストラともいえる音楽を隠していたのだ。

リーマン予想を未だ証明できないということは、リーマンが初めて聴いた天上の音楽を誰も譜面に表せないということでしょう。

何世紀ものあいだ、世代から世代へと引き継がれ、ひたすら、この難解で荘厳な音楽を楽譜に、と狂おしい努力を続ける数学者たち。一部の天才だけが聞くことを許された音楽を普通の人たちにも分かつため。
これってすごい冒険ではないでしょうか。
きっと、この音楽を一度聴いてしまった人たちは、幸せであり、同時に苦しみ続けるのでしょう。


この本を手に取るきっかけになったのは、いしいしんじの「麦ふみクーツェ」に出てくる素数に囚われた一人の数学者が気になったから。
あの本を読んだとき、彼の存在は悲しく滑稽な皮肉でしかなかったけれど、今、彼は本当にほかの人には聞こえない彼だけの音楽に耳を傾けていたのだということが理解できるのです。

はっきりと聴き取ることができたら、彼にとってこの世の何にも勝る完璧な美しい音楽なのに、そのところどころしか聴き取ることができない苦しみやいらだち、しかも聴き取れる部分のえもいわれぬ魅力、それが聴こえる束の間の幸福。
だからこそ追いかけずにはいられない。苦しくてなんと幸せな人生。よそから見たらなんとも滑稽でおろかな姿であっても。