『23分間の奇跡』  ジェームズ・クラベル 

  >物語は午前九時に始まり、九時二十三分に終わる。
   一つの国が破れ、占領され、教室に新しい教師がやってくる。
   そのクラスでの二十三分間のできごとがこれである。
   その状況設定からいえば、
   アルフォンス・ト゛ーデーの名短篇≪最後の授業≫の続編にあたり、
   いわば≪最初の授業≫ともいうべき作品である。 
                                        ~「訳者あとがき」より~

新しい教師がやってくるのを、おそれふるえながら待っている元の担任と子供達のいる朝の教室。
どんな情け容赦のない魔女が現れるかと思いきや、入ってきたのは若い魅力的な女性教師。にこやかに「みなさん、おはよう。わたしが、きょうからみんなの先生ですよ」と言う。
先生は初めて会うみんなの名前を覚えてきてくれた。
先生は床にすわって歌い、話す。
先生は決して、「~をしなければいけません」とは言わない。声を荒げることなく、終始楽しそうだ。そして、ちゃんとみんなの意見を聞いてくれる。みんなの疑問に、ともに考えようとしてくれるし、決定はひとりひとりにゆだねてくれる。
……
……
「北風と太陽」の太陽のように、先生は終始にこにこしながら、子供の言葉に同意しながら、子供達自身に考えさせ、子どもたちの心を捉え、たくみに一定の方向に導いて行く。
もし、違うストーリーの中でこの教師に出会っていたら、わたし自身、この先生に魅了され「すばらしい先生!」と思ったことだろう。わが子がこんな先生のもとで教育を受けられたらいいな、と思ったかもしれないのだ。

みんなは次第に先生に魅了されていく。
怖ろしい物語だった。
子供達の洗脳が終わるまでにかかった時間がわずか二十三分間だった。
占領国を憎み、新しい教師が来た時「まけるものか、だまされるものか」と考えていた一人の少年さえも、わずかに二十三分の後にはこの教師の熱狂的な支持者に変貌していた。

気をつけて読めば、「待てよ」と思うのだ。先生、その理屈はおかしくないか、なぜ、そこからそっちへ行くのか、と…なのに、いつのまにか気がつくと、先生の話術に嵌っている。集団が作り出す妖しい「雰囲気」のなかに呑まれている。
なるほど、こういう巧みなリードで、こういうことをさせるのか、それなら最後にはこういうことをしたくなるだろう。初めはそんなことをしたくなるなんて一向に思わなかった。それなのにこうなっては、そうするのが自然だと思わずにはいられなくなる。そして自ら進んでやる。
――国旗を切りわけ、残った旗ざおを窓から地面に投げ捨てる場面です。

この恐ろしさ。自分の頭をしゃっきりさせて整理するために、何度も途中読むのをやめて立ち止まった。でも、教室の中、集団の中で、流れる時間のなかで、ひとり立ち止まることができるのだろうか。
子供達は「何かを押し付けられている」という意識をもつことなく、いつのまにか「自分の考えで」(先生の思惑にかなったことを)したい、と思うようになっている。わずか23分前とはまるっきり逆方向を向いていることに気がつきさえしない。

この子たちは今日まで教育を受けてきたのだ。学校で、家庭で。宗教、愛国心道徳心…抽象的なこと。こういうものが、あっという間に、もろく崩れ去る怖ろしさ。しかも「崩れ去った」という意識さえもっていないのが、なお怖い。

教育のおそろしさ。その責任の重さ。日本にも一夜にして全ての価値観がひっくり返った時代があったから…
大人の一人として、しっかり意識しなければならないこと――なのだけれど、でも本当にこれでいいのかな、わたしの考えは、どうやってここにやってきたのかな。わたしが顔を向けている方向は間違っていないのだろうか。
わたしは完璧ではない。だれも完璧ではない。正しい答えなんてない。
いろいろなものをいろいろな角度から見ること聞くこと、そして時間をかけて考えること、そういう努力をすること。今、そのくらいしか思いつけないのだけれど。

この本の原題は“Children's Story…but not just for children"