『時の旅人』 アリソン・アトリー

本を読みながら、文章のあちらこちらに散りばめられたハーブの香りがしてくるような気がした。風の音、木の葉のゆらぎ、川が歌い流れるさま、昼と夜のかぐわしい空気につつまれるような心地よい美しい文章。

一族が代々住んだ古いサッカーズ農場に滞在する病弱で夢想家の少女ぺネロピー。
この農場はもともと、16世紀にスコットランドの女王メアリーの逃亡に手を貸して失敗した貴族バビントン家のマナハウスの一部だった。ぺネロピーの祖先はバビントン家に代々仕えてきたのだった。
ぺネロピーは、ある日、開けたドアのむこうに昔の貴婦人たちがすわっているのを目にする。
そのときから、彼女は頻繁に20世紀と16世紀を行き来するようになる。そして、この屋敷のバビントン一族や台所の女性たちと交わりながら、ともにメアリー女王逃亡の企てを見守ることになる。
だけど、ぺネロピーは知っている。女王が最後にどうなるかを。そして、この館の当主アンソニー・バビントンがどうなるかを。

物語は最初から、悲劇に向かって進んで行く、それをぺネロピーにはとめることができない。そのせいか、16世紀の世界は美しく寂しいのです。ページを追うごとにどんどん悲劇の匂いが強くなっていくのです。
それにひきかえ、現代のサッカーズ農場の平和なこと、活気に満ちていること。ぺネロピーが現代にもどってくるととてもほっとするのです。わたしもあのサッカーズ農場の台所にすわってバーナバスおじさんの歌声に耳をかたむけたい。ここには生きる喜びがあふれています。
同じひとつの館なのに、相反する二つの気配。そして、現在のサッカーズが過去の悲しみを癒しているようにさえ感じました。

マナハウスと言うと「グリーンノウ」を思い出します。でも、グリーンノウは、今、静かにひっそりと安らいでいるような気がするのに、サッカーズのほうはまだまだ元気です。
何百年も続く家。何百年も使い続けられた鍋や食器棚(今も現役です!)などの描写に圧倒されます。

ぺネロピーの記憶はあいまいで、16世紀にいくと現代の記憶がぼんやりしたものになってしまい、ふと思い出しかけてはすぐに忘れてしまいます。現代においては、16世紀の記憶がぼんやりしているよう。これは、まるで眠りに落ちかけて半分夢を見ているような状態に似ています。この不思議な感覚に引き込まれて、読んでいるとこちらまで朦朧としてきてしまいました。

悲しく切ないけれども美しい。そしてそれだけではなく、強さも伝わってくる物語です。その強さはぺネロピーという少女を通して描写されます。
悲劇にむかうアンソニーや、それを取り巻く人々の悲しみ。これらもまた、悲しみ、苦しみを時代を行き来しつつ乗り越えて行くぺネロピーによって浄化されるように思いました。
現代も過去も一瞬の夢のよう、長い長い時間の流れの中の一点なのだ、
わたしたちはどうあっても生きるしかないのだと。どのような時代に生き、どのように翻弄されようとも、どのような結果が待ち構えていることを喩え知っていたとしても、やはり精一杯生きるしかないのです。命尽きるその瞬間まで。
そんな思いが伝わってきます。

役者あとがきのなかに、二つの定本にミスプリントなのか作者による変更なのかわからない部分があった、と書いてありました。メアリー女王の悲運を思って涙をこらえるぺネロピーについての記述が一方では“with head bent"(=うつむいて)で、もう一方が“with head bent back"(=頭をうしろにそらせ)で、“back"という単語が一個入るか抜けるかだけでまるっきり反対の意味になるとのこと。役者はイギリスの少女はこういう状況ではどうするだろう、と悩んだ挙句、「頭をうしろにそらせ」という言葉を採択しています。
私もそれでよかった、と思います。ぺネロピーの強さは頭を上げて涙をこらえる姿が似つかわしい、と思うから。

全てを覆い尽くす雪と、温かく明るいクリスマスの家の中の過去と現代の光景は、あまりにも美しすぎます。
切ないのですが、その一方、怖れつつも全てをしっかりと見届けようとするぺネロピーの強さが、物語を支え、どこか静かなさわやかさを読後にのこしてくれたように思いました。