『本の愉しみ書棚の悩み 』 アン・ファディマン 

読書案内などではなくて、本に対する作者の愛着を語ったエッセイ集。どの章にも「ああ、わかるなあ」と感じるところや、「エエッ、そこまで?そりゃついていけないよ」と思うところや、「なんと羨ましい境遇だ」と感じるところが、バランスよく配されている。

  >わたしが本書を書き始めたのは、
   まるで、トースターのことでも話すように
   本について論じた書物が多いことに疑問を感じたからだ。
   (中略)
   読者を消費者とみなすこのやり方は、
   読書のいちばん大切な点を完全に無視している。
   つまり新しい本を買いたいかどうかではなく、
   長年つきあってきた本、
   わが子の肌のようにその手ざわりや色やにおいになじんだ古い本との
   かかわりを、
   どう保っていくか、という点だ。
そうだそうだ、と同意する。大切な本について語るほうが、新しい本をみつけることよりエキサイティングだと感じるときもある。

人の愛し方がひとつではないように、本を愛する方法もいろいろだ。
いわゆる「本を大切にする」(ページのかどを折るなんてもってのほか、本を開いたままナイトテーブルにふせておくことも許しがたい)人のことを筆者は、(本に対して)騎士道的恋愛を信奉する人、と呼ぶ。
対して、言葉を入れる容器としての本を酷使することは、軽視でも冒涜でもなく愛着を持っていることの証だ、とする肉体的恋愛の実行者たち。
作者は後者だという。(だったら、なんでこんなに装丁の凝った本を作るんだ。この本は粗末に扱えるような体裁じゃないぞ。)
筆者は、本に対する騎士道的恋愛信奉者を密かに愚弄して、本をこれでもかこれでもかと痛めつけることに喜びを見出しているかのようで、このあたりははっきりいって不愉快だ。これは「肉体的恋愛の実行者」というよりも「あんたはサディストか」といいたいほどだ。
わたしは、どっちでもない、たぶん。本を広げたまま伏せておくこともあるけど、ページを折るのは嫌いだ。だいすきな本が、何度も開かれることにより、傷んでくることは愛着の印、と思うけれど、読んだページを破りとる、とか、お風呂場で読んで熱でページがどうにかなる、なんてことには耐えられないよ。
まして、飛行機の中でペーパーバックを読みながら、帰りの荷物を軽くするために(!)読んだページは破り捨てる、とか、旅先で、ページの上に止まった虫はそのままパタンと閉じてお持ち帰り、とか、嬉々として語らないで欲しい、サディスト!
だけど、過去の著名人の書き込み入りの蔵書は、なんとなく読んでみたい。どんなことが書いてあるんだろう。

7千冊の蔵書とともに引越しを繰り返した作家夫妻の親のもとで、本に囲まれて子供時代をスタートした筆者は、ポケットサイズの22冊のトロロープ著作集を積み木にして遊ぶところから、本とは切っても切れない関係になったこと、
42歳の誕生日に夫がくれたプレゼントは、古本屋に連れて行ってくれて7時間かけて9キロの本を選ばせてくれること。夫は、三ツ星レストランでの食事や気球に載せた半キロのキャビアよりも、9キロの古本のほうが、筆者には9倍も美味だということをしっている。
タメイキの出るような生い立ち、生活ではありませんか。

好きな章は、最後の「古本」。思わす心拍数があがりそうなフレーズの目白押しでした。例えば…
  >新刊本の書店は清潔で、コンピューター管理されていて、
   本はきちんとアルファベット順にならべてあるのが望ましい。
   だが古本屋はあまり整っておらず、猫が昼寝していたりするほうがよい。
   そして、ひょっとするとポーの『タマレーン』を見つけた猟師のような
   幸運にめぐまれるかもしれない、
   と空想する余地があるくらい雑然としていてほしい。
こんなのを読むと、すぐにも古本屋に行きたくなってしまう。
そして、無茶苦茶本が読みたくなる。本に囲まれた部屋で、本にうずもれて、思う存分読書三昧に耽りたい、と思ってしまう。