『ふたりの証拠 』 アガタ・クリストフ 

悪童日記」に続く三部作の第二部。 ~半ネタばれの感想になってしまいました。お気をつけください~
ええーーーっ!って感じで、この本は一気。

双子の片割れクラウスが国外に逃れた後、村に残った片割れリュカによってこの物語の大半は書かれたことになっている。いつか戻ってくるであろうクラウスのための作文は続く。

リュカは青年。文章から「悪童日記」に感じた鋭い刃物のような鋭利さは消え、穏やかにさえ感じられた。「悪童日記」と違って、三人称で書かれた物語だったからかもしれない。すごい描写はあるのだけれど、差し迫って何が何でも生きるためになんでもやる、という切羽詰った感じがなくなったように思えた。
むしろ、文章の行間からは、リュカの愛情や孤独感を強く感じずにはいられなかった。――そう思っていた。途中までは。
それが物語半ばでふと疑問がよぎる。それは、最後までリュカに変わらぬ友情を寄せていたぺテールの言葉からだった。
いや、今思えば最初から、違和感を感じていた。
悪童日記」であれだけ常に一緒に行動していた双子であったのに、この物語では最初からもうひとりが嘗てこの村に存在した気配がないのだ。
かなり親しい司祭や、ジョゼフでさえもまるで、ずっとリュカがひとりでここに暮らしているような話しぶりではないか。。
そして、クラウスの名を口にするリュカに向かって「本当はクラウスなんていないのではないのか」と言うぺテール。

そういえば第一部の「悪童日記」を読んだ時に感じた。この文章は、二人の人間が書いたとはとても思えない。最初から最後まで文体が統一されていて。でも、それほどまでに魂までも双子の強い絆のふたりだったのだ、と、そんなふうに思っていた。
だけど、ここで、ぺテールと同じようにわたしも疑問を抱いてしまう。 ――クラウスはいたのか
――本当にリュカには双子の兄弟がいたのか
――『悪童日記』はリュカひとりの成長の記録だったのではないか、あれは、双子という体裁をとりながら、あるいは、自分の孤独感から『双子の兄弟がいる』と思い込んでの作文だったのではないか。
…だけど、この本、タイトルがほら、「ふたりの証拠」じゃないか、ちゃんといるんだよね。ふたり。それをこのあと証明しようっていうんだよね。…違う?

物語が終盤に近付くにつれて、リュカをめぐって衝撃的な事件が次々に起こる。もっとも大きな悲劇が起こって…
突然クラウスが帰って来たのだ。(ほらごらん!)
だけど、そのときにはすでにリュカはこの村にはいない。(え!?)
そして、次々に明かされる事実。
ああ、この「事実」だけを書き連ねた作文にわたしはまたまんまと嵌ってしまっていたのだ。少年期から通じるリュカの心が見えなかったのだ。
ペテールが言う。
  >「…わたしは以前からね、
   リュカ(LUCAS)とクラウス(CLAUS)という二つの名前の言葉遊びを
   愚劣だと思っていたよ」
そして、最後のあのお役所(?)発行のクラウスの本国送還の書類の記述、あれはなんだろう。
  >リュカなるものが同原稿(この本のこと)の大部分を執筆し、
   …クラウスは、
   最後の数ページ、即ち第八章を書き加えたに過ぎないという。
   ところが、筆跡は最初のページから最後のページまで同一であり、
   使用されている用紙も何ら古びていない。
そして、この村に彼らの実在の形跡はないという。それでいながら、彼らの祖母が嘗て実在していることは確認しているし、
  >同婦人は、先の戦争のあいだに、
   一人、もしくは二人以上の子供の監護をまかされたかもしれない。
と締めくくられる。

一体この本を書いたのは誰?最後の最後まで来て、
ここまで、これだけ人の気持ちを動揺させながら一気に引っ張って来て最後にこうして煙にまく。
そもそも彼らは実在したのか…この物語はなんだったのか。
まるで双子の罠に絡め取られているような気分だ。