『赤い鳥の国へ』 アストリッド・リンドグレーン 

この世で、どうしても救われない不幸がある、どうにもならないことがある。してあげられることがあるとしたら、一つきりの扉を彼らに閉めさせることだけ。
扉を閉める。虚しくて、切なくて、やりきれないです。

「貧しい時代に、つらく悲しい日々を過ごした子どもたちを、児童文学の女王リンドグレーンが、優しくあたたかい眼差しで見つめる」(アマゾン・レビューより)と言われれば、そうか、と思うのですが、でも、それを大人はともかく、児童書のなかで語るのは、なぜなのでしょうか。

この本に限らず、リンドグレーンのこちらの系列(「ミオよ、わたしのミオ」「はるかな国の兄弟」など)に戸惑ってしまうのは、これが大人の本じゃなくて児童書だからです。
子供には、死(別の世界での幸せ)ではなくて、この世に生きて幸せになってほしい。 うそっぽくてもなんでもいいから、とにかくこの世にいてほしいんです。灰色のつらい、もうどうにもならないくらい悲惨な生活しかなくても、ほんのひとかけらでもいいから、この世から何かいいものを受け取ってほしい。
うそでもいいから、この世を最後まであきらめないからこそ後の世があるのだ、と言ってほしい。
甘いでしょうか。

二人の兄弟に帰って来てほしい、というのは残酷でしょうか。帰る場所が灰色であっても、一時的な避難をしても、いつかこちらの世界に戻ってくるよ、という匂いだけでもあったらいいのに。
そのためにも扉は開けておいてほしかった。行きっ放し(というか逝きっぱなし?)は、あまりにも切ない。
こういう物語がこんなにも美しく幻想的に語られるのはつらすぎます。
こういう優しさが必要なほどにこの世は酷いところなのだと、子供に(ほかならぬ子供に)語るのでしょうか。

それとも・・・
こういう時代があった、こういう救われない生があったこと。それをごらん、と言っているのか。ちゃんと見ておきなさい、心の隅に留めておきなさい、と言っているのでしょうか。