みるなのくら

みるなのくら (日本傑作絵本シリーズ)

みるなのくら (日本傑作絵本シリーズ)


anne先日、松谷みよ子「私のアンネ=フランク」を読みました。
この本の底辺にずっと流れ続けていたのが、青森県の昔話「鬼の目玉」でした。
 ――「目玉を返せ」と若者を責めさいなみ続ける鬼。若者を助けたいばかりに娘は「見るなの蔵」で見つけた目玉を鬼に渡す。
  以後若者と娘は幸せに暮らした、という。――
蕗子(「私のアンネフランク」の主人公のひとり)は、この結末が変だといいます。
鬼に目玉をかえして幸せに暮らせるのかと。
目先の善意でしたことが、とんでもなく大きな災厄をまねくことになるのではないか、と。
蕗子は言います。
「すべての光が消えて、わたしたちは、無数のしゃれこうべの上に坐ることになるだろう」と。
(★感想をほんのもりにUPしました。)

みるなのくらは、見るなの蔵。のぞいてはいけない禁断の場所。それをあえてのぞいたときに、何かが変わってしまう。
「私のアンネ=フランク」の中で語られる「鬼の目玉」の挿話の恐ろしさにふるえあがり、絵本「みるなのくら」のしっとりとした情感が恋しくなり、図書館で借りてきました。


「みるなのくら」
一の蔵から十二の蔵。ひとつずつ開かれていく蔵のなかは、絵草子の美しさです。
やまのなか、うぐいすのなきごえ、うつくしいあねさま、つぎつぎに差し出される美しい風景、そして、優しい禁止の言葉。
決して明るい話ではありません。でも、この淡い色合い。
すぐに解けてしまう雪のように、すぐに覚めてしまう夢のように、赤羽末吉さんの絵は、切なく美しいです。
取り返しの付かない失くし物を繰り返してきた大人のための絵本ではないでしょうか。(もちろん、「子どもの本であると同時に」という条件付です)
二度と取り返すことのできない美しいものをなつかしく思い出すのです。


けれど、
「鬼の目玉」では、若者が娘に、「みるなのくら」では、あねさまがわかものに、それぞれ「決してみてはいけない」という言葉とともに「見るなの蔵」の鍵を渡しているのです。本当に見てほしくないなら、初めから鍵など渡さなければいい。(と、思いません?)渡した時点で、「この人は見てしまうかもしれない」と予感している。あるいは少し期待しているのではないでしょうか。
「鬼の目玉」の若者は、蔵のなかにしまってあるものが何なのか知らない、ということになっているけれど、うすうすわかっていたはずです。そのうえで、責任を娘に丸投げしている。
「みるなのくら」では、あねさまにわかものの気持ちを確かめようとする傲慢さが見える。
きれいな話だけれど、鍵を渡す側も渡される側も、少し弱くて身勝手…のように思いました。

「鬼の目玉」を簡単に渡してしまうのも日本人ですが、赤羽末吉さんの差し出す絵草子に切ない憧れを抱くのもまた、日本人なのです。
「私のアンネ=フランク」のなかで「日本人は忘れんぼだから」という言葉がくり返し、出てきました。
失ったら二度ともどらない美しいものと、美しいものを美しいと感動する心もまた守るために、手放してはいけないものがあるように思いました。