『火星年代記』  レイ・ブラッドベリ 

  >「火星年代記」はある意味で、《宇宙版千夜一夜物語》である。
   と同時に、
   より深い意味では、ホーソンの、空想にみちた寓話とおなじ、
   深刻な意味と苦悩をもった物語でもあるのだ。
            (クリフトン・ディアマン「まえがき・ノート」より)

まさに千夜一夜物語。こんなに静かな美しい物語があるでしょうか。
(1950年頃に臨み見た)未来の物語なのに、火星がなつかしい、という感じに打たれるのです。
感情のほとばしりのような言葉はひとつもありません。むしろ淡々と、起こった事や、人々の姿がオムニバス形式で描かれていくのです。
1999年1月から2026年10月までの26の小さな物語。
そして、読み終えた後に、今まで読者として眺めてきたさまざまな風景、それから、本当にたくさんの人々の群像がなつかしく思えてくるのです。
この本に登場する人々の大半は決して歴史(が、書かれるとしても)、その表舞台に名を残すことなどないでしょう。むしろその人の存在は親しい人の心にだけ住み、やがて忘れられていくのです。そして、ここで語られる事件の大半もまた、当事者以外に意味はなく、忘れられていく物語だろうと思うのです。
その積み重ねが語る歴史。まるで雪が降り積もるように。そして最後にはなにもかもが消えてしまう・・・やはりこれも「歴史」なのだと思うのです。

印象に残ったのは、
ロケットの夏」  冬空を一瞬夏に変えて発射されるロケット。なんという鮮やかな映像。
「空のあなたへの道」  黒い流れとなって、黒人達が火星に旅立とうとする場面。アメリカで黒人が解放されたなんて形だけの嘘っぱちだよ、と言っている。静かに、詩的に、そして毒気を含んだユーモアとともに。
「夜の邂逅」 なんと美しい夜だろう。時代を超えてふと行きずりに言葉を交わして、決して触れ合うことなく別れていく二人の姿。火星人と地球人。
「火星の人」では亡くした人の「姿」を思う老人たちの心が切なくて。苦しんでようやく諦めたものなのに、もう一度諦めなければならない、なんという痛み。引き戻される現実の、あまりに惨い姿。こんなに静かな川辺で。
「オフ・シーズン」はこわい。こわい場面はひとつもないけど、むしろユーモアがいっぱいで、おかしいんだけど、こわい。何も知らず、火星のホットドック屋の前に立って、わたしもふっと空を仰ぎ見たような気がする。天空で、緑の地球が一瞬で赤く変わるさまを。
「長の年月」 残された人々(?)を思うと・・・この気持ちはなんだろう。なんて表現したらいいんだろう。駆け戻ったウィルダー隊長にわたしも同行したい。それでいいんだ、それで、と思う。
「やさしく雨ぞふりしきる」  芝生に焼きついた子供の影が目に鮮やかに焼きついてはなれない。
まだまだ忘れられない光景が人々が次々に現れてくる。

火星人は静かに尊厳をもって滅んでいった。
地球人は核戦争で滅んでいった。
わたしたちは何を学ぶのでしょうか。火星の上に残された二つの全く異なった文明の廃墟を見ながら。そして、いつまでも変わらずに美しく輝き続ける星を見ながら。
皮肉、風刺、そしてぞっとする警鐘の物語でありながら、この物語はやはり「静かに美しい」という賛辞が一番相応しいような気がしました。

「おやすみなさい おつきさま」(マーガレット・ワイズ・ブラウン作 クレメント・ハード絵)という絵本がありますが、わたしは、この絵本を思い出しました。
うさぎの坊やが、ベッドのなかで、お部屋の中の愛しいものたちひとつひとつに「おやすみなさい」を言っていく絵本です。
ページを繰るごとに、部屋のなかはいよいよ暗く、それに対して窓の外は月が昇り星は数を増しながら、徐々に明るくなっていくのです。
最後のページでは、真っ暗い部屋のなか、静かにうさぎの坊やは眠り、窓の外では星々がお祭りのように明るく賑やかに瞬いているのです。

――「火星年代記」は、壮大な宇宙の「おやすみなさいおつきさま」だ、と思いました。
火星年代記の、26の小さなひとつひとつの物語が、「おやすみなさい」の言葉のよう。
静かに眠った宇宙のなか、火星はことさら美しく輝くようです。
・・・そうして最後に「百万年ピクニック」の最後の一文がゆっくりと胸に沁みてくるのです。
おやすみなさいおつきさま」のうさぎの坊やが明日の朝「おはよう」を言うように、火星もまた、明日の「おはよう」をそっと抱いているような感じのラストでした。

「SF]という言葉を越えて、その領域を越えて、素晴らしい叙事詩を紐解いたような充足感を伴って・・・