『その名にちなんで 』 ジュンパ・ラヒリ 

主人公は、ゴーゴリという名前のアメリカ生まれアメリカ育ちの青年です。父と母はインドからの移民でした。
故あって名づけられたその名は、インド的でもなくアメリカ的でもない「ゴーゴリ」。この名前に翻弄される青年の半生の物語。
特別な大きな盛り上がりがあるわけではありません。
文章も、感情を抑え、最初から最後まで同じ調子で、ひたすらひたすら進むのです。
ずっと現在形の文章で。
ある人間の歩みを、まるで、絹の上の緻密な刺繍のような、あるいは細かな彫刻を丁寧に施した小箱のような感じに写し取っていきます。ゆっくりと、文章に身をまかせて運ばれていくのはなんと心地良いのでしょうか。
そして、この物語は、静かにじんわりと沁みてくる。

青年のもっとも非凡な部分が「ゴーゴリ」というその名。その名の上に、父アショケの物語がある。母アシマの物語がある。ゴーゴリの妻となるモウシュミの物語がある。
ゴーゴリを中心に据えながらも、これは、ひとりひとりの登場人物を主人公にした短篇を連作形式で読んだような感じさえするのです。そして、どの短篇にも魅了されてしまうような。そして、これらの人々の物語が重なっていく。

こちらは、どの人の人生の中にもすんなり入りこんで、ともに悲しみ、傷つき、切なくなったり虚しくなったり、後悔したり・・・ひとりひとりの登場人物に寄り添いたくなってしまう。
アシマにはとりわけ惹かれました。インドと日本。根っこの違う私ですが、アシマの価値観には通じるところが多かったのです。――というより彼女の母であり妻である部分に共感したのでした。
子供は去っていく。だけど、なかなかにすんなりと受け入れがたいものがあるのです、結局はあきらめるのだけれど。「そうなんだよね」と言いながら、いっしょにお茶したくなりました。
そして、夫への思い。むやみやたらに夫の名を連呼したり、寄り添ったりすることはないけれど、ゆっくりと染みとおっていくような静かな愛情。
物語の中盤、夫の電話を受ける場面はたまりませんでした。わたし自身が自分で受話器を握っているような気がしました。
ここから先の数ページは、ゆったり読んでいられなくて、ずっと緊張して、一気に読んでしまいました。

特殊な文化や価値観の中で生きて、異国の文化に戸惑いながら、自分達の根っこを常に故国に感じている親世代。彼らは、同じベンガル人たちとの繫がりを大切に、小さな共同体を作っている。
生まれた子供達がアメリカの色に染まっていくのを戸惑いながら眺めている。
子供達は子供達で、父母のようにインドを故郷のようには感じられない。アメリカの文化の中で育ち、父母のベンガル的な独特の価値観を疎ましく感じたりもしながらも、自分を「アメリカ人」と言い切れない引っかかりがある。
アメリカって国。人種のるつぼ、といいながら、異国で移民として暮すことは並大抵のことではない・・・なんともいえない孤独を感じてしまいました。
ベンガル人としての伝統、風俗習慣が、異国のなか、あれほどまでに頑なに守られてきながら、ゆっくりと解体していくさま――あきらめと、これでいいんだという安心感。
かと思えば、解体しつくしたいと思いつつ、どうしても消えずに残るものなどに気がついたりします。

そして、主人公ゴーゴリが常に意識してきた「ゴーゴリ」というその名。まるっきりベンガル的ではないその名こそ、本当はもっともベンガル的なものだった、と思わずにはいられなくなりました。
古式に則り、曾祖母に名をつけてもらうつもりだった、その曾祖母の手紙は届かなかった。
アメリカの法にしたがって産院を退院するまでに名づけなければならなくなった、アシマ・アショケの夫婦。幼名というつもりでつけた名。嘗て列車事故九死に一生を得たアショケにとって、ニコライ・ゴーゴリの本は、自分の命を救った深く大切な本であった――

ゴーゴリがその名に感じる違和感は、ベンガルに対する違和感、父に対する違和感、アメリカに暮す自分の根っこに対する疎ましさ、そして、同時に畏怖でもあったと思います。

最後に、アシマが、身辺を整理し、インドとアメリカを受け入れようとするクリスマス。
ゴーゴリもまた、その場所で、はじめて自分の名に向かいあおうとする・・・
ゴーゴリ32歳。今初めて「その名にちなんで」生きていこうとする(ことを匂わせる)ラストが、ゆっくりと胸に落ちてきて、じんわりと余韻に浸ってしまいました。