雨が降る朝、スクールバスを待つ子供達が、「お話ゲーム」を始めます。アンナがいいます。「ヒットラーのむすめの話よ」
「もしもヒットラーに子供がいたら…」という発想のユニークさ。
そしてそれが、子供たちの「お話ゲーム」であること。
さらに、これは本当にフィクションなのかどうかわからなくなっていくこと。
答えの出ないたくさんの問いかけ。
のめりこんで一気に読んでしまいました。
印象に残っているのは、マーク少年がヒットラーについて、おかあさんに聞いても、忙しさを理由にはぐらかされてしまった時、
「もし、質問に答えることが大好きなおかあさんだったら」「いろいろなことを考えるのがほんとうに好きな人がお母さんだったら」と考えて、理想のおかあさんとの会話を想像する場面。
自分のことに置き換えて、胸がちくんと痛かったのです。
また、印象に残ったのはヒットラーが人間らしく描かれていること。孤独で、わりと弱いところもあり、彼もまた、苦しんでいたのではないか、と感じられたところ。
と書くと誤解されそうですが、
つまり、ヒットラーが、類のない怪物なら、再び同じような怪物が現れることをそんなに心配しないですむんじゃないでしょうか。
でも、ヒットラーみたいな人は普通にいるんじゃないか、普通の人が怪物になったのだ、と思えることが、かえって怖いのです。
こういう普通っぽい人の手で、時代が一つの方向に進められた、ということが、とても怖いです。
当時のドイツの人たちみんなが諸手をあげて、ヒットラーを迎えたわけではなかった筈。
いやなことは見ない、聞かない、考えないようにしよう、としているうちに、いつのまにか、事態は進んで、もう後戻りできないところまで来てしまった。
だから、いつもかかさずニュースを聞いたり、デモに行ったり、署名活動を始めたりする・・・ということになるのかと思ったら、そうではありませんでした。
マーク少年は、「それはそれでなんだか困ったことになるのかもしれない」と感じています。じゃあ、どう違うのか。答えはありません。
訳者あとがきによる、
>マークは「どうやったら善悪の違いがわかるのだろう?」とか、
「自分のまわりの人たちがみんな間違っていたら、
自分はどうしたらいいのだろう?」とか、
「自分のお父さんが極悪人だったらどうしたらいいのだろう?」などと、
さまざまな疑問をもちますが、
それはマークだけではなく、
多くの子どもたちが抱く疑問ではないでしょうか?
本のなかには答えはありません。答えはわたしたちひとりひとりがみつけなければならないものなのでしょう。
戦争の物語なのに、静かです。それは、ずーっと雨が降り続く暗い朝にすこしずつ語り進められた物語だからでしょうか。
語り部の少女と、お話のなかの少女、家庭教師の女性・・・様々な人々の悲しみが、このどんよりとした静かな雨の中で、胸に沁みてきます。
このお話は、もしかして本当にあったことではないの?
事実がどんなふうであったとしても、少女が一律「ただのお話よ」と答えるしかないような状態の原因もまた、読者であるわたしの胸のうちにあったのでした。
静かな雨がお話のおわりを包みます。