『トリツカレ男』 いしいしんじ

ちょっとないような完璧な恋物語。いえ、嫌味ではないです。
恋って、そういうことなんだ。トリツカレルってことじゃないか、と改めて思う。

どこだかわからない不思議な、でもなんだか庶民的な町。物言うハツカネズミ、不思議なくだけた語り口。ちょっとありえない展開、などが、いしいしんじだなあ~と思う。
そして、この不思議な舞台に、この可愛らしくて、真剣な物語はとても良く似合う。

コミカルに表現されるジュゼッペの「トリツカレ男」というニックネームのいわれ。
何かに夢中になる、というのとはわけが違う。レベルがちがう。もう、数段すごい。
オペラに「トリツカレ」たら、仕事ちゅうも歌い続けてやめられず、クビにはならないが、他のものに「トリツカレ」るまで出勤を禁じられるありさま。
三段跳びに「トリツカレ」たら、世界記録を出すありさま。
徹底的すぎるほど徹底的で、ここまで真剣に「トリツカレ」たことって、ほんとにあるかいな、と驚いてしまう。
しかも、そのトリツカレるものは脈絡もなく、生きていくために役に立つとか、この道で身をたてよう、とか、そういう計算は一切なし。ただひたすらに、のめりこみ「トリツカレ」ていく。
その姿は滑稽で、まぬけでかわいい。

恋って、本当はそういうもの。(三段跳びだって探偵業だって、トリツカレれば恋と同じか。)真剣になればなるほど、傍目には滑稽。だけど、その姿はしばしば感動を呼び起こす。

と、いい年して真面目に言ったら、なんだか照れてしまうのだけど、 どこかに皮肉を言いたくなるのだけれど、・・・

  >ちょっぴりひねくれた皆々さんが、お知りになりたいことといやあ、
   ああ、わかってるよ。
   ・・・・・・
   ずばりだろ。
   思ってるよな、こんなできすぎた結末、ばかみたいだぜ、って。
   なあにが完璧な春だ、浮かれてんじゃねえ、って。
       (「最終章 特別サービス」より)

といわれても、やっぱり、この結末にフフウッと笑いたくなってしまった。幸せな気持ちで。
何かに「トリツカレ」たら、すべてを投げ出して真剣にその「何か」の名前を呼んでみる。
今、真剣にトリツカレていない自分がちょっと寂しい。のめりこんで、顔や姿まで変わるほどにトリツカレてみたい。

  >ふつうのぱんだけでいいから、四種類ぐらい置いてね。
   両手でもってまんなかをさくと、
   綿菓子みたいな湯気があがるの。
   あの湯気ほどのごちそうはほかにないね、って、
   お客さんにいってもらえたらうれしいなあ。
そんなパンが私も食べたい。
パンから立ち上る湯気を食べたい。
「幸せ」ってこんな湯気を食べることかもしれない、と思ったりします。

それから、早川純子さんの挿画がよかったです。とてもいしいしんじ的(?)な感じがしました。不思議で、ちょこっと不気味で、かわいらしくて、絵のなかにしっかり物語がある感じ。
この本にぴったりでした。