『しゃべれども しゃべれども』  佐藤多佳子

「しゃべる」ということを意識したらもうだめです。ああ、しゃべるの苦手だ、とがっくりきてしまう。
気の合う人たちとお気に入りの話題をとりとめもなくしゃべるのは楽しい。
だけど、
人前で話すのは嫌いです。自分の前の顔顔顔がぼーっとかすんできて心臓がバックンバックン言い始める。これは勤めている時から、いや、学校時代からダメでした。颯爽と冗談など交えながら要領よくしゃべる友人には羨望。
自分の失言も笑えない、おろおろしながらフォローしようとするうちにますますドツボに嵌っていく。

ふう、前置きが長くなってしまったけれど、「しゃべる」ってどういうことなのかなあ。

この本には不器用な人ばかりが出てきた。みんなそれぞれ、年齢も違えば、性別もちがう、性格も違うし生活も違う。およそ接点なんてない。ないどころか一癖もフタ癖もありそうなやたら個性派揃いときている。ただ、共通しているのが不器用で人前でうまくしゃべれない、という悩み。
彼らが、噺家二ツ目の今昔亭三つ葉(本名戸山達也)のところに「落語」を習いに来る。

短気なくせにやたら世話好きな三つ葉と彼らのおかしな授業(?)が続くうちに、見えてくるのは、
彼らのうちに秘めたそれぞれの想い。伝えたい相手がいるのにうまく伝えられないこと。共通点がもうひとつ。一様にやさしいのだ。やさしすぎて自信がもてない。
また、さらに同じ想いを抱えているのは、しゃべりのプロである三つ葉自身だった。三度のメシより好きなはずの噺は一向に上達しないし、想う人の前では何も言えなくなる。「自信を持てよ」とは言いつつ、自信を持てないのは、ほかならぬ自分であった。
彼らの、まさに「しゃべれども しゃべれども」・・・

ふと以前読んだ同じ作者の児童書「イグアナくんのおじゃ毎日」を思い出します。
パパの上司に無理やり押し付けられたイグアナを毛嫌いしていた女の子が、やがて、物言えぬイグアナと心を通わせていく。
ここに作者の考える「しゃべり」の原点があるような気がするのだけれど。
嫌だ嫌だと逃げるのではない。立ち向かえというのじゃない。とりあえず、その場に踏みとどまって、相手を良く見る。見ようとする。
それだけで「喋り」はほとんど成功しているのではないかな。

自分のみっともない姿をさらして、相手を安心させて笑わせる。かっこいいじゃないか。
村林、君はすごいよ。
じぶんが傷つくことをものともせず、ひたすら言葉を語り続ける姿は、最高。
また、ラストの黒猫にはじーん。(大吉のおみくじがくっついたほおずき。ほんとにニクイ)
みんながそれぞれに不器用に自分自身の「喋り」をはじめようとするラストがいい。そう、はじめよう、とするところで終わるのが。

大体このテンポのいい、ちゃきちゃきの江戸っ子三つ葉の一人称の文体がいい。落語家の語りはおもしろい。
「煮込みすぎてぐずぐずになった鱈のように」なんて比喩は、落語を聴いてるみたいで、クスクスがとまりません。

前に読んだ「サマータイム」とは別口の爽やかさを感じてます。喩えるならやはり、季節は夏だろう。
サマータイムの夏はからっとしていた。
こちらは、湿度の高い熱帯夜、開け広げた座敷で、扇風機に暑い空気をかき混ぜさせながら、思い切り汗をふりとばす爽やかさ。うまくいえないけど・・・わかりますかしらん。