『海辺の王国』  ロバート・ウェストール 

1942年イギリス。
空襲で家族(両親と妹)を一挙に亡くしたハリー(12歳)は、避難所に行く事を拒否(家族の死を受け入れることを拒否)して逃げ、途中で会った犬のドンとともに放浪の旅に出る。

あとがきの作者の言葉
  >これは戦争についての本ではない。
   さびしさ、思い出、生き続けること、誠実、海についての本である。
   これはまた、父親をさがしもとめる少年の話であり、
   息子をさがしもとめる父親の話である。
この言葉どおり、戦時中の物語とはいえ、戦争文学というものとはちょっと違っているように思いました。
少年の成長物語、といってしまえばそれまでですが、本来信頼できる大人の庇護のもと、ゆるやかに大人に移行していくべき時期に、強引に大人にならざるを得ない、そういう成長。

最初のほうの、ハリーが家族を思い出して「夢だったら」と思うところ、また、楽しそうに海岸で遊ぶ女の子の姿をぼんやりと眺めているあたりで、たまらなくて、読むのをやめようかと思ってしまった。
やがて、様々な人間――ぞっとするような人間、奇妙な人間、温かい人間・・・・いろいろな人たちに出会いながら、生活する技術を身につけ、たくましくなってくると、もう一気読みでした。出会った人出会った人が素晴らしくて(悪人もまたうまく書かれています)魅力的で、いきいきしているのです。
ことに相棒のドンとの友情がいい。ときにユーモラスで、ほっとさせてくれる。
忘れられないのは、(どの人も忘れられないのでですが)砲兵伍長のアーチー。彼のおだやかな温かさが好きだ。そして、ハリーとの温かな交流に打たれる。

絶え間ない飢え。雨露をしのぐ場所。そして、警察に告げられるかもしれない恐れ。
そういうものと引き換えにしても、少年は「自由」に向かって手を伸ばすのだろうか。
ハリーの踏みしめる大地から「生きろ生きろ生きろ」という声が聞こえてくるようでした。
やがて、息子を失ったマーガロイドさんと出会い、ともに暮らし、互いの隙間を埋めあいながら、親子になろうとする。
マーカロイドさんが丘の上でハリーに話して聞かせる、子供を失った雌羊と親を失った子羊の話が良かった。おずおずと不器用に心を開きあっていく過程が好きです。
ここで大団円でもよかったのです。戦時下という異常な状態のなかで、少年の成長、とても素晴らしかった。やっと安住の地を見つけて、今後は違った意味での成長を期待しながら、「いい本だったあ」と本を閉じてもよかったのです。
しかし、この作者は、ラストでひねりを入れて、もう一度揺さぶりをかけてくる。
読者に苦い問いを突きつける。

☆以下ネタバレします☆

マーガロイドさんの養子になるために手続きをしようとして戻ったふるさとの町で、ハリーは自分の家族が大怪我を負いながらも生きていることを知るのです。
なんという残酷なラストシーンだろう。
ハリーを待っていたのは、ハリーが旅のあいだ思い描いていた家族ではなかった。
  >ハリーは成長した。この家に入りきらないほど大きくなってしまった。
   パパはそれを知っている。それを憎んでいる。
ハリーにすっかり感情移入してきたわたしは、この情ない親との再会のシーンに、へたり込みそうになってしまう。
ここに至って、ふっと、空襲によって吹っ飛ばされたものは、ハリーの家族ではなくて、この家の子供としてハリーを繋いでいた鎖のようなものだった、と気づきました。
子供は成長する。そして親の手からはみ出すようにして、あえぎ、気がついてみたら子は、親である自分とは別の場所に立っていた、ということを私たち親は遅かれ早かれ実感する。
しかし、それは、同じ屋根の下にいて、半分ためいきをつきながら、ゆっくりと手を放していくのなら、諦めもつく、受け入れることもできる。わたしはそのように育てたのだ、と半分自分にいいわけしながら。
でも、子供は、わたしの知らないところで思いがけなく大きく(たぶん親を超えるほどに)成長して、それに親として手を貸したのは自分たち以外の「親」たちだった。としたら。
それは親にとって耐え難い事実です。わたしは、ハリーの視点からいきなり親の立場に立ち返らされて、胃をぎゅっと掴まれたような気がしました。
子供が成長するとは、めでたい反面、親子両者が苦い水を飲む、こういうことでもあるのだ、と気がつきました。
この隙間はうめることが出来るのか出来ないのか。
読者の手元に、重すぎる問題を残して、さあっと幕を引いていってしまった。