『少年時代 (上下)』   ロバート・マキャモン 

  >わたしは魔法の時代に、魔法使いのいる魔法の町で生まれ、そして育った。
   ・・・・・・
   十二歳の年には世界はわたしの魔法のランタンで、
   そのエキスの緑色に燃える輝きによって、
   わたしは過去を見、現在(いま)を見、未来を覗いていた。  (序章より)

とてもとてもよかったです。
一気に読むのが勿体無いくらい。最後のほうは、目が先へ先へと読みたがって文字や行をすっとばしてしまいそうなので、葉書で次の行を抑えて隠しながら読んだくらいです。

1991年当時の「わたし」が1964年の「わたし」ことコーリー少年の十二歳の一年間を回想し、古き良き時代、まだ魔法が残ったアメリカ南部の田舎町ゼファーでの春夏秋冬を4章に分けて綴る。
1964年、ゼファーの町では、黒人は白人のプールに入れなかったし、白人の喫茶店にも入れなかった。だけど、少しずつ人種差別を否定する考え方も芽生え始めていた。そういう時代だった。

最初にコーリーと父親は、殺人事件の現場に遭遇する。
この殺人事件を縦糸にして、物語は進む。
ただ、底辺に「殺人事件」があるとはいえ、物語は遮二無二事件の解決にむかうわけではない。
4章仕立ての物語は、章ごとにそれぞれに違ったテーマがあって、手に汗握るクライマックスが用意されていて、どれもがそれぞれにおもしろく、短編(中篇?)としても魅力的です。
でも、この本の本当の魅力は、ストーリーそのものとは別のところにもあるような気がします。

コーリーの十二歳の日々は輝きに満ちている。
土曜の午後の映画、親友四人での森のキャンプ、お祭りカーニバルの怪しげなテント、氾濫した川からからだを起こした大きなモンスター。
幽霊達。
そして魔法。
この魔法は、おそらく少年達の豊かな感受性と想像力、そして、魔法を信じる心が引き起こしたもの。
少年達は夏休みの最初の日、汗を流して、背中の皮膚を突き破って羽を広げて、飛ぶのだ。(この描写がなんとも美しく爽やかで、何より自然) また、自転車はただ乗り物ではなかった。名を持ったそれは、よき相棒であり、ともに冒険する同士だった。
また、一方、人生の苦味を感じ始める年でもある。
憔悴していく父親の苦悩、愛犬の死、親友の死、きれかけた人への信頼、人種差別があり、社会は急激に移り変わっていく・・・
コーリーはこうしたことに深く関わり、苦しみながら、大人になっていく。

レイ・ブラッドベリの世界をちょっと思い出すなあ、と思っていたら、コーリーがクリスマスプレゼントに、ブラッドベリの『太陽の金の林檎』をもらっていた。
ああ、やっぱり、と思ったのと同時に、なんだかうれしくなってしまった。

両親の息子に対する関わり方も好きです。古典的と言えば古典的な夫婦なのですが、特におとうさんが息子を相棒と呼び、陰で支えながら、信じ見守ろうとする姿勢がすきです。
町のたたずまいや町の人たち、ひとりひとり。親切で、小ずるく、不気味で、温かく、いろいろな影をひきずったり、賢かったり愚かだったり、異常そうに見えて純粋だったり、当たり前の隣人かと思ったらとんでもなかったり…
たくさんの人々の群像が目に見えるようです。私自身の隣人として。

コーリーの愛車(自転車)ロケットの金色の目はとても印象的でした。二人(敢えて二人と呼びたい)が一体になって駆け抜ける姿が目に見えるようでした。ためいき。 少年の日にはあんな魔法があったのですよね。

 読んでいると、なんともいえない郷愁につつまれる。
コーリーの一年にかぶるようなわたしの思い出はないはずなのに、なぜかなつかしくてたまらなくなってしまう。
わたしの十二歳がではなく、コーリーの十二歳がなつかしいのだ。
自由に羽ばたく「魔法のつばさ」への憧れかもしれない。
あるいは、わたし自身がいつのまにか年をとってしまったのかもしれない。なんだか、自分の中に眠っていた、むかしのわたしにまた出会えたような、不思議な感じ。
マキャモンという人は素晴らしい魔法使い。こんなふうにして、はからずも彼の魔法にかかって、若い日の魔法が蘇ってしまった。

でも、ほんとうは、この本の魅力をちっとも伝えきれていません。こんなにさまざまな魅力がぎゅうっと詰まった本なのに。
全部読み終えたあと、序章をもう一度読み返してみました。最初に読んだ時はさあっと読み流していた言葉達が痛いほどに意味をなして流れ込んできました。

  >ある歌になにか懐かしさをおぼえたとき、
   光の柱のなかで踊る微細な塵に我を忘れて見入ったとき、
   遠くを走る夜汽車の音を聞いて、あの汽車はどこへ行くのだろうと思ったとき、
   ・・・・・・
   そのきわめて短い時間、あなたは魔法の領域へ踏み込んでいたのだ。
                                (序章より)