『光草(ストラリスコ)』  ロベルト・ピウミーニ 

トルコの一地方の太守の息子マドゥレールは、外気にも太陽の光にも当たることのできない奇病に冒されていました。
光の射さない屋敷の奥に暮らすことを余儀なくされている愛する息子の11歳の誕生日のプレゼントとして、太守は、名手として名高い画家のサクマットを招聘します。息子の暮らす部屋の白い壁いちめんに息子の望む絵を描いてほしいと。

マドゥレールにはじめて会ったサクマットは驚きます。屋敷の奥深く、光を避けて静かに暮らしている少年の瞳の輝き。それは彼の想像力の広さ豊かさでした。
サクマットはマドゥレールと話し合い、画筆をとります。たくさんの本や絵本を糧に、その想像の翼の広がりのままに、絵を描いていくのです。
はじめに山を。山で暮らす羊飼いの小屋。二人には、この羊飼いの経歴も、人柄も、今何を望んでいるかも、すべてわかっている。そして、絵に描かれない山の反対側に暮らす友人の姿も見えている。
山をめぐっていく道はどこに続くのか。
山をおりてある都。城壁を隣の国の兵隊に包囲されている。戦争の真っ最中。この戦争のなかに咲いた切ないロマンスも描かれている。
それから海。水平線のむこうに、点のようなものが描かれる。これは舟だろうか、陸だろうか。この点はだんだんに大きくなり、海賊船になる。海賊船の乗組員、見えている人物も描き込まれない人物もあわせて19人。やはり、全ての人物の経歴をマドゥレールとサクマットはよく知っている。
そして草原が現れる。マドゥレールは、自らの手で、光草を描き込みます。

この絵が、少年の物語をはらみながら日々刻々と変化し、深みを増していく様子が素晴らしいのです。風を感じ、そこから揺れる草花や、暮らす人々の匂いを感じ、声を聞き、季節を感じます。
わたしもまた、今いるこの場所がマドゥレールの部屋に通じているように感じ、彼らの友情に触れながら、ともに絵のなかを旅していくような気持ちになるのです。
その絵のディテールのひとつひとつに託された物語。見えないものをも語る奥行きのある物語。

マドゥレールはやがて死を迎えます。こんな風に書くと、ネタバレでしょうか。いえ、物語の途中まで読むと誰でもわかってしまうんです。やがて来る結末が。
でも、それは悲しくも哀れでもないのです。命を精一杯に燃やしきった爽やかさと充実感に満たされていくのです。

絵は、刻々と変化していくのです。
夏の盛りをすぎ、死期が近付いている少年の前から、海賊船は地平線のかなたへ姿を消し、山のふもとの都では戦争が終結する。山に住む羊飼いは羊を半分手放します。草原では草が枯れ、色鮮やかなチョウチョたちも去り、地面があらわになっていく。

なぜ、こんな絵を描くのか、とふと思いました。少年の死期が近付いている。こんなときには、元気な色に満ちた世界を描いて励ましてあげたい、と思うではないですか。 でも、そうではないのでした。
画家と少年の心は完全にひとつでした。草原が眠る。眠りの中の豊かな豊穣。そして、詩のような言葉で伝えられる「光草(ストラリスコ)」の意味・・・
自らの充足とともに、こちらの心にも、その輝きを残して逝った少年。その後、画家が二度と筆を採ることがなかったとしても、その心に残ったものは穏やかに一生に渡って輝きつづけるのです。