『雪沼とその周辺』 堀江敏幸

雪沼という山間の土地の周辺。
大型ショッピングセンターはこの地にはない。夜の9時ともなれば、街の明かりは消えて、あいている店などない。
温泉と雪質のいいスキー場があるけれど、巨大な駐車場もきらびやかなホテルもない。

ある意味ゴーストタウン化しつつある古い町。
ここに住む、あるいはここに縁を持つ人々をめぐる七つの短編。

読み始めたとき、おや、と思ったのは、これ、日本の本なんだ、ということ。翻訳もののような、湿り気のない文体にちょっと驚いて、すぐに気持ちいい、と感じました。

この短編集の主人公たちには、共通点があります。
大変な老齢ではないけれど、それぞれ、現役をそろそろリタイアしようか、という年齢の人々。
そして、この小さな忘れられたような街の片隅で、地味な職業につき、急ぐでもなく、休むでもなく、誰かに省みられることも期待せず、しかし丁寧に暮らしている人々でした。
この人々の暮らし、そして、人生が、そのまま、かの(大型ショッピングセンターもなく大型駐車場もきらびやかなホテルもない、しかし雪質の良いスキー場があるという)雪沼という土地そのものではないでしょうか。

物語は、それぞれに、淡々とゆっくりと、人のふとしたしぐさや表情の合間に、その人の人生を見せてくれる。
その生活はリアル(この人たちの職場の情景は目に見えるよう、音も空気の匂いまでしてきそう)で温かく、ああ、こういう生き方っていいじゃないか、と思う。
それぞれに、何かかけがえのないものを失い、忘れたくても忘れられない過去を折々に振り返り、
静かにこうして、時はすぎていくのかな、老いをゆっくりと迎えるのかな、
と思えば、物語の最後に、はっとさせられる衝撃的な文が、一見無造作な感じにおいてある。
衝撃的? 衝撃だろうか。
たぶん、そんなことは誰も気がつかない。風景は何一つ変わらない。
でも、その風景のなかにいる中心人物には、今までの人生が180度変わってしまうかもしれないようなこと。
あるいは、見てみぬふリをしてきた自分の中にある弱さやおびえ。
グロテスクでどきっとする一文。

この静かで温かい風景のなかに、そっと、ほんのわずか恐れをおいてみる。老いることの恐怖、生きることの気味悪さ。
おだやかな人生にこうして見えない影が忍び込む。(人生とはそういうものだ、ともっともげに言えるほどの歳ではないけれど・・・)
だけど、それは嫌な感じではない。それでいいのだ。うすっぺらな美しいだけの風景なんてうそ臭い。
まるで一枚の完全な絵画のような作品だと思いました。

どの作品が一番好きか、といわれても・・・全部。このままの並びで。
最後にきた「緩斜面」の一番おしまいの文が、上昇する感じで終わるのがすきです。(でも本当はそこにあるのは若い日の幻影にすぎない、寂しさと喪失感が高く上昇していく。)
 >・・・ながい尾を引きながら巨大な和凧と化して見えない緩斜面を滑ると、
  薄く焼けはじめた天空にむかってぐんぐん舞いあがっていった。

そして、本を閉じたとき、はじめて、美しく寂しい雪沼というこの山間の街がまるで自分のふるさとの街のように身近に感じられるのです。