『少女ソフィアの夏』  トーベ・ヤンソン 

ソフィアの一家(ソフィアとパパとおばあちゃん。)は、多島海の小さな島で毎年夏を過ごす。
詩のように美しい北欧の夏のかけらを切り取った短編が22編。
作者トーベ・ヤンソンが「わたしの書いたもののなかで、もっとも美しい作品なのよ」と言ったそうだが、本当にため息がでるほど美しいです。
その自然描写は、ロバート・マックロスキーの絵本「すばらしいとき」や、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を彷彿とさせます。

この島での祖母とソフィア。パパもいるのですが、まるで影法師のようで、現実感がないのです。ここは祖母とソフィアの世界です。
そして、この小さな短編の集まりはまるで、脈絡なく並べられているようで、ソフィアという少女の年がいったいどのくらいなのかもちょっとわからない、時間が前後したり、
ソフィアと祖母とパパのほかにもだれかいるような気配(?)があるのですが、それもはっきりしません。
でも、そんなことどうでもいい、というか、それだから余計にこの世界は、静寂と孤独をまとって、独特の美しさを放つのかもしれません。

ソフィアと祖母。二人の関係は、あたりまえの老人と孫、という感じとはまるで違っていて、親友同士のようです。
たとえば
「おばあちゃん、いつ死ぬの?」とソフィアが聞きます。祖母は答えます。「もうすぐ。でもおまえには関係ないことよ」
また、
ふたりはトランプをします。知っているかぎりのイカサマを駆使しあって、あげくのはてに大喧嘩。
ふたり、たがいに機嫌を損ねたら、すねて何日も平気で口を利かない。

それでも、互いに相手をそれとなく気遣う。それは弱いものをいたわるやりかたではなく、相手が自分自身の力を発揮できるように見守り、励ます、そんな感じでしょう。
変にべたべたせずに、相手の孤独な領域を犯すことなく並んで立つ二人の独特の関係。

幼い少女の気まぐれや妙な執着、老人の散漫さと衰えていく気力。こういったものが結びついた時、途端にいきいきとして、不思議な輝かしさを放つものだ、と感じるのです。

どの章もすごく好きだけれど、(自然描写のためいきのでるほどの素晴らしさは言うに及ばず、)
「地獄」について、ふたりの意見がわれたとき、「悪魔は地獄に住んでいるんだ」というソフィアに対して、おばあちゃんは、「神さまはそんなばかげたものおつくりにならない」と主張し、「人生はつらいことだらけなんだから、そのうえにあとで罰を受けるなんて、とんでもない。」という。おまけに「おまえは信じたければ信じるがいい。だけどね。寛容の精神も学ぶべきですよ」などと妙な説教をして、ものすごーくバッチイ歌をものすごーくオンチに歌うところ。など、好きです。
それからソフィアの「ミミズの研究」(おばあちゃんが口述筆記した)は最高。何かすごい賞をあげたいくらいだ。

(精神的な)若さと、けだるさ。自然の美しさと荒々しさ。静けさと騒がしさ。集中と散漫さ。相反するものがリズミカルに現れたり交差したりします。美しい音楽のような調和を感じる作品でした。