『 真珠の耳飾りの少女』 トレイシー・シュヴァリエ 

フェルメールの代表作の一つでもある絵『真珠の耳飾りの少女』(一名『青いターバンの少女』)から生まれた物語。
(昨年のフェルメール展の頃買ったまま、ずーっと積読してあった本でした。)
この絵のモデルは、フェルメールの娘たちの誰かだと聞いていましたが・・・
一枚の絵から、想像が広がり、こんなに奥行きのある物語が生まれるのですね。

主人公フリートという少女がどんな少女であったか。
物語の最初に、フェルメール夫妻が女中として雇う予定の少女を訪ねる場面があります。
少女は、台所でスープに入れる野菜を刻んでいる最中でしたが、その野菜を色が喧嘩しないように気をつけて皿の上に並べていることに、フェルメールは目をとめます。
これだけで、少女の色彩感覚、知に勝ったところなどに、読者は気付かされてしまいます。
また、奔放で燃えるような髪の毛を一筋も見せないように、真っ白の糊のきいた頭巾をストイックなほどにぴっちりと身につけている少女。このようにして、少女が、その見かけとこのようにありたいと願った姿と、人目からも自分の目からも隠しておきたいもうひとりの自分、に、読者を導いてくれるのです、多くを語らずに。
こういう少女が、フェルメールという天才に魅せられ、力を尽くしながら、その家族の人間模様のなかで、どのように、自分を保とうとしたのか、流されまいとしたのか、何に憧れ、何をおそれていたのか・・・

読み始めたら、ぐいぐいと引っ張られ、物語のなかに引き込まれずにいられなかった。
フェルメールの数々の有名な作品が、おのおのドラマチックな物語を帯びてあわられるのですが、それぞれに、見るべき魅力がさりげなく語られていたりします。
特にフリートという少女の類まれな性格付け、
その髪の毛を見られることを恐れることに象徴される少女の本当の心。 耳朶にあけた穴に象徴される暗くて痛々しい罪悪感、そこからぶら下がった真珠の、絵そのものの価値を全く変えてしまうほどの大きな光。
訳者による後書きを読むまでもなく、作者が、どんなに周到にこの物語を用意したか、わかるのです。

だけど、
この物語が素晴らしくよくできていることを認めながらも、やっぱり、フェルメールの描いたあの絵、ただ一枚きりのあの絵から膨らむイメージや感動には、はるかに及ばない、と改めて思ってしまいました。