『麦ふみクーツェ』  いしいしんじ

いしいしんじ作品、二つ目、です。
この本がどんな本なのか、あらすじはどんなのか、ということを説明することが、これほどアホらしい、と思わせる作品はないのではないか、あらすじを書き始めたら、作品からどんどん離れていってしまいそう。(実はすでに書き始めて虚しくなって消しました)

もともと主人公を初めとして、登場人物の固有名詞はほとんど出てこないし(出てきても、名前というよりまるでニックネームみたいなへんなのだし)
舞台になった場所は相変わらず無国籍状態だし。
出てくる人たちは、あいかわらず、現実には「いっこないでしょ、そんな人!」って感じの人たちばかりだし。
事件だって、そう、起こる事件がリアリティなさすぎ。(玉虫色のセールスマンだけがやけにリアルでした)
たぶん、作者の意図なんでしょうね、このほわーんとしてボーっとした感じ。だからあらすじを書くことも「意味ない」
物語はあるんだけど、物語の筋を追うことではこの本の魅力は語れない!と、見ました。

以前、いしいしんじの「ぶらんこ乗り」を読んだときに、ショックを受けた。こんな本は初めてだと、思った。
そのあと、大海赫の「メキメキえんぴつ」を読んだ。やはりショックだった。こんな本は初めてだと、思った。(好きではないけど妙に忘れられない)
どちらの作家の本もこれしか読んだことがないのですが、何日かたったあと、ふっと、この二つの本が私の中で結びついてしまいました。似ている。とおもいました。
表現しようとするものはまるっきり違うんですけど、この二人は同じ場所に立っているのではないか、と感じました。(どちらも1冊しか読んでいないのに、えらそうなことはいえないし、ほとんど妄想ですが) 二人とも、「生きること」に対して、とても暗いものを見ているように思いました。冷めた目です。暗くて冷たい。どこにもしがみつけるものはない。
どこまでもどこまでも、このまま真っ暗で冷たい世界を歩いて行くしかないのだ、と諦めてはいないでしょうか。
ハッピーエンドなんかめったにあるもんじゃない、そんな幸運期待するな、
失敗したらやりなおせばいい?そんなことができるのはまれだよ、まれ。甘ったれるな。
努力すれば必ず見返りがあるなんて、誰が言った?そうならないほうが多いだろう。

で、この暗くて冷たい世界をそっくりそのまま見せようとしているのが大海赫であるのに対して、
いしいしんじは、
この暗く冷たい世界のなかを最後まで歩いていかなければならないにしても、まわりを見回せば、慰めになる美しいものがこんなにあちこちにあるじゃないか、と言っているような気がする。
暗さや冷たさ、苦しさ寂しさを思わず忘れて歩みをとめてしまうようなものが。
「ぶらんこ乗り」には、それを特に感じました。

そして、この「麦ふみクーツェ」
スタンスは変わっていないのだろう、と思います。
だけど、「ぶらんこ乗り」に比べて、暖かくて、明るい。と感じました。これは、黄色い広い畑で、とんたたん…と麦を踏み続けるイメージのせいでしょうか。
それからいやらしい言い方ですが、「ぶらんこ乗り」より、あとの、この作品。もしや、いしいしんじさん自身が、この2作のあいだにある達成感を得て、コンプレックスを克服したのではないのかな、なんて思ったりもしました。
そう思ったのは、355ページのこの言葉。
 >へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。   ひとりで生きてくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない。
  そのわざのせいで、よけい目立っちゃって、いっそうひどいめにあうかもしんないよ。
  でもさ、それがわかっててもさ、へんてこは、わざをさ、みがかないわけにいかないんだよ。

静かに横たわる生きていくことの悲しみ。そして、その悲しみのなかから、人への愛が、麦を踏むように静かにリズミカルに、地から強い響きで湧き上がってくる。踏まれた麦のように。

最後にクーツェが何者かが明らかになったとき、主人公の本当の人生が始まったように思います。
暖かく爽やかなラストシーンでした。

ただ、「ぶらんこ乗り」に見た、まるでしゃれこうべとキャンディが無造作に並べておいてあるような不思議な感じ(でもとても不器用に)
が、この本では、あまりにもスマートになっちゃって、お話が素敵になりすぎちゃって、なんでしょうね、却って、ちょっと物足りないような。何か失くし物をしたような。ないものねだりですね。